カラオケの月刊誌というのがありまして、歌の手帖社が発行している「月刊歌の手帖」と株式会社ミューズが発行している「月刊カラオケファン」があります。どちらの雑誌も、自分の歌を録音したものを送ると、作詞家や作曲家の先生が審査して段位が決まる「Kリーグ」「KFチャンピオンシップ」というものがあります。歌の仲間の人たちが「雑誌に掲載されました」とTwitterでツイートしていたので、書店に行って、買うつもりはなくて読み始めました。
アイドル向けの雑誌があるように、カラオケの月刊誌に登場するのは演歌・歌謡曲の歌手の皆さんで、お目当ての歌手のファンの方は記事を読んで喜んでいるだろうなと想像してしまいます。同じ記事を読んでいても、読者の方それぞれ読み方が違うと思うんです。ぼくの場合は、「歌手の方はどういう気持ちでこういう雑誌の取材に応えているのだろうか」という視点で読んでいます。インタビュー記事も質問が上手で、新曲の取材は勿論ありますけど、今の現状における歌手としての気持ちみたいなところを引き出してくれているので、その点は読み応えがあります。
そうやって読み進めていくうちに、次第に「やっぱり買おうかな」という気持ちが芽生えてきましたが、それは記事の中に、ぼくに刺さる言葉があったというか、気になることがいくつもあったからだと思います。「歌の手帖」の中澤卓也さんの記事で、レコーディングに参加した野口五郎さんが中澤さんに「全体的には、悲しさを悲しいってわかるように唄わない方がいいんじゃない?全面に出さず、哀愁感に…」アドバイスした言葉が紹介されてまして、それって中澤さんの歌い方を瞬時に分析して、歌の癖を見抜いたんだなあって。ぼくもカラオケ大会で審査員の先生が、ぼくが思ってもいないことを指摘されることがありますから、一面的に歌を捉えちゃ足りないんだなあって思うんです。「こういう歌い方じゃないとって決めてますよね」って言われたこともありますし。それと、中澤さんは師匠の田尾将実先生からも「ちゃんと唄わなきゃ感がすごい!」とよく言われるとの一節を見て、また「ぼくが言われてるのかな」って感じてしまいます。「ちゃんと」っていうのは、音程やリズムを正しく歌うのはあるとして、その言葉とメロディーを融合させた歌声って、別に答えは1つじゃないんですけど、教科書的な回答の歌声を選んでしまってるのかなと思うことがあります。これも「いろいろな音を試してみたらいいと思うんですよ」と言われたことがあってか、ぼくには刺さります。
もう1つ、Kリーグの記事の中で歌手の長保有紀さんがコメントされた中で、「プロになりたいなら、カラオケは止めた方がいい。音が完成してるから、自分の歌の悪い所が分かりにくい。先生のピアノでなら、良くなかったらバンって止まって「やり直し!」ってなるでしょう」というのがありました。プロを目指すなら先生に付くべきだというお話なんですが、プロの歌手の方は生演奏で歌うわけで、その現場では歌手も演奏者も一体になって生音を作っています。ぼく自身はカラオケの音源にもそれを作った方がいて、一つ一つの音に意味はあると思うので、一元的に機械的な音とまでは考えてはいませんけど、カラオケとは別に、音を作る現場でも歌う機会を作りたいと思って、生バンドの演奏で歌う大会にも出たことがありますので、長保さんのコメントも刺さりました。
「カラオケファン」も海沼実さんの記事で、舞台歌唱の際に注意すべき点として身ぶり手ぶりを挙げられていたのが、今のぼくにとっては気になることでした。最近、オンラインのカラオケ大会で動画を提出する機会があります。ただ歌っているだけではダメなのかなと考えて、歌詞を表現する一つとして手を動かしたり体を動かしたりするわけですが、その振付は歌にあっていたのかなとか些かオーバーアクションだったかなとか、提出した動画を振り返って反省することがあります。「何となく手を動かしているだけの場合やプロ歌手の立ち居振る舞いをコピーしたような動きも、聴き手に違和感や悪印象をもたらす危険があることを覚えておきましょう」とあるのを読んで、グサっと刺さりました。
こうして立ち読みしながら心が刺されまくりでは身も持たないので、「歌の手帖」と「カラオケファン」を買って帰り、家でじっくりと読むことにしました。両方の雑誌には、竹島宏さんの新曲「プラハの橋」の詳しい解説もあり、覚えようと思ったのも買った動機でした。こんな調子で読んで考えてたら、1ヶ月かかりそうです。