DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

早春物語

今週は先週と比べると急に気温も上がって、春が近づいているのを感じます。3月の時候の挨拶の一つに「早春の候」がありますが、今の時期に何となく思い出す曲が、原田知世さんの「早春物語」という曲です。

この作品は、原田さんの主演映画「送春物語」の主題歌として、1985年7月17日に原田さんの7枚目のシングルで発売されました。作詞は康珍化さん、作曲は中崎英也さん、編曲は大村雅朗さんです。イントロの「逢いたくて 逢いたくて 逢いたくて あなたにすぐに」から始まる「逢いたくて」のリフレインが今でも印象に残るフレーズです。原田さんの声質はとても繊細なんですけど、その声がなぜか歌の世界の広がりを感じさせてくれる、従来の歌手にはない魅力があったように思います。やはり「時をかける少女」での成功体験があったので、凛とした少女としての女優のイメージを損なわないような作品づくりが、映画の主題歌を作るに当たっても踏襲されたように思います。

作詞の康さんは、5枚目の「愛情物語」、6枚目の「天国にいちばん近い島」に続いての3作目の提供ですが、前2作に比べると、全歌詞に占める「逢いたくて」の割合が多いこともありますが、歌詞が普遍的な印象があります。作曲の中崎さんは、鈴木雅之さんの「もう涙はいらない」や、アン・ルイスさんの「WOMAN」、小柳ゆきさんの「あなたのキスを数えましょう」といったヒット曲から、強いメッセージを持ったサウンドを作られる印象がありましたが、「送春物語」では繊細な原田さんの声に少し強さを出すために、1音1音を伸ばすような曲づくりが効果的だったように思います。

原田さんはこの年のNHK紅白歌合戦に初出場し、「送春物語」を歌って華やかなステージを見せてくれました。


原田知世「早春物語」

 

ぼくがDAM★ともでよく歌っているアーティストではないけれど、歌詞が面白いなあとか、曲が面白いなあとか、歌っている感じが好きだなあというアーティストは結構います。その1組が「SURFACE」というボーカルの椎名慶治さんとギターの永谷喬夫さんの2人からなる音楽ユニットです。

SURFACEは1998年5月27日に「それじゃあバイバイ」でデビューし、「なにしてんの」、「ゴーイングmy上へ」、「その先にあるもの」などヒットを次々と出してましたが、2010年6月13日に解散しました。その後、椎名さんはソロアーティストとして、永谷さんはギタリストやプロデューサーとしての活動を続けてきましたが、2018年の元旦の椎名さんのブログで、デビュー20周年となる2018年5月27日に、SURFACEとしての活動を再開することを発表しました。今から3年前、ふとしたことで2人が再会し、過去には言葉にしなかったであろう事も赤裸々に語りあう時間があったそうです。それから「ゆっくりだけれども確実に、自分たちが描くビジョンが重なり合ったのだ」と椎名さんはコメントされていました。永谷さんは、最初の12年でできたこと、できなかったこと、様々な感情、そして椎名慶治という存在を、今回は改めて向き合い見つめ直す機会であるとし、「体も大きくなったが、心も成長している気がします。少し大人ににったSURFACEを応援してほしい」とコメントされていました。

この活動再開までのくだりを読んで、CHEMISTRYの堂珍さん、川畑さんの話とも似ているなあと思いました。自分たちがソロになって活動している音楽シーンの中で沸々と感じる疑問。その疑問をぶつけられる相手は元の相方で、そのうちお互いに今まで話さなかったことを話すようになって、お互いに大事な存在だとわかりあえたら、それは素晴らしいことだなあと思います。

ぼくはSURFACEだけじゃなくて、椎名さんのソロ作品も好きで「RABBIT-MAN」はDAM★ともでも歌ったりしました。椎名さんがソロ活動を始めたのが2011年頃、今日は東日本大震災が発生した2011年3月11日から7年を迎えました。あの当時、音楽をやっている人たちは無力感を感じ、こういう仕事をしている我々に何ができるのかと自問自答した話を結構聞きました。そして、自分たちは音楽を届けるしかないという結論に至って、それぞれの活動を行ったと思います。椎名さんも当時のブログで、「売名行為と言われようが、偽善者といわれようが、それでも音楽を届けたい。パソコンでも携帯電話でも、ほんの少しの電気で、無料で聴ける環境をと、Youtubeに「声」という新曲のデモをアップしたので、俺たちスタッフの思いが、素直に皆の心に届いてくれればと切に願っています。」と書いていました。

今改めて、「声」を聴きましたけど、いつものチャラっぽい椎名さんではない、まっすぐな歌を歌っている椎名さんに改めて好感が持てました。それぞれの人があの日とその後の数週間について感じたり経験した思いを、記憶として再び思い出していただければと思います。


椎名慶治/声

フレンズ

ぼくがDAM★ともでお気に入りにしているアーティストのCHEMISTRY。最近Youtubeで、堂珍さんがレベッカの「フレンズ」を歌っている動画を見て、カッコよく歌ってるなあと思いました。

「フレンズ」は1985年10月21日にレベッカの4枚目のシングルとして発売されました。
レベッカ」というバンド名は、初代のリーダーだったギターの木暮武彦さんが、アメリカの小説家ケイト・ダグラス・ウィギン(Kate Douglas Wiggin)の小説「少女レベッカ」(Rebecca of Sunnybrook Farm)から命名しました。デビュー当初はロックっぽいサウンドで、デビュー曲の「ウェラム・ボートクラブ」は、ブレイクしてからのレベッカのサウンドとは違います。デビュー前、木暮さんとNOKKOさんはアメリカに渡り、アメリカでのデビューを模索しました。残念ながらデビューはできず2人は帰国するわけですが、彼らがやりたかった音楽はロック色が強かったのかもしれません。その後、音楽の方向性の違いで木暮さんとドラムの小沼達也さんはレベッカを脱退、2代目のリーダーに土橋安騎夫さんが就任してからは、ポップ色が濃いサウンドになっていき、当時アメリカで「ライク・ア・ヴァージン」(Like A Virgin)を大ヒットさせたマドンナのポピュラー・サウンドを志向した作品づくりだったように思います。

当時の日本では女性ボーカルと男性たちが楽器を演奏するロックバンドというスタイルはまだ珍しかったかもしれません。ロックの女性ボーカルといっても、当時は中村あゆみさんとNOKKOさんぐらいで、ガールズバンドもSHOW-YAやプリンセスプリンセスがデビューし、女性のロックが芽生え始めたのが1980年代前半だったように思います。

レベッカが活躍していたのは1984年から1991年までです。脱退した木暮さんと小沼さんはその後、田所豊さん、つまりDIAMOND☆YUKAIさんと共にRED WARRIORSを結成しました。そして、NOKKOさんと木暮さんは1990年から1993年まで結婚生活をしていました。なかなか人のつながりは複雑なものです。

「フレンズ」が発売されてから32年が経ちましたが、今でも音楽に古さを感じないんですよね。だから、男性の歌手がカバーしても、良く聴こえるんだろうと思います。


[高画質]♪フレンズ(REBECCA(レベッカ))/堂珍 嘉邦(CHEMISTRY) × DAIGO(BREAKERZ) × 増田 貴久(NEWS)


Rebecca - Friends (1985)

最期の川

3月4日にこのブログで新しい地図の「雨あがりのステップ」を書いたところ、いつも以上に多くのアクセスがあり、ちょっと驚きました。他のSNSの反響などを見ても、それだけ、稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんへの世の中の人たちの期待が大きいんだなあということを改めて実感しました。なお、ぼくも間違えたのでブログを修正しましたが、新曲のタイトルは「雨上がりのステップ」ではなくて、「雨あがりのステップ」です。

さて、2月21日に俳優の大杉漣さんが急死されました。ぼくは大杉さんをテレビではよく拝見していましたが、演じられているお姿はほとんど拝見したことがありませんでした。ぼくが唯一、大杉さんの演じる姿をよく見たのは、CHEMISTRYの「最期の川」という曲のMVに父親役で出演されたときでした。

「最期の川」は2007年10月24日にCHEMISTRYの22枚目のシングルとして発売されました。この作品は、作詞をされた秋元康さんが原作の映画「象の背中」の主題歌となるんですが、元々は秋元さんが原作の世界観を音楽で表現してみようと、井上ヨシマサさんに作曲を依頼し、この曲に秋元さんが歌詞をつけたところ、映画を撮った井坂聡監督にも好評だったこともあり、主題歌の起用が決まったそうです。そして、主題歌を歌う歌手については、「1人の男の中にいる2人の自分を表現できるアーティスト」ということでCHEMISTRYが選ばれました。この作品は「死」をテーマにした、人の普遍的な愛を歌っていますが、堂珍さんと川畑さんの声が自然に調和して、素直に歌われているのが、生きていく姿勢を表現できたのかなと思います。編曲がCHOKKAKUさんというのを見て、いつもとは違うので意外な感じがしました。

象の背中」は、末期の肺がんで余命半年と診断された48才のサラリーマンの心情と生き方を描いた小説ですが、運命を受け入れて強く生きようとする自分、でも残していく家族のことを考えていると切なくなる自分、そんな心の葛藤を描いています。映画では役所広司さんが主演をされていますが、CHEMISTRYの「最期の川」のMVでは、病気を患っている父親役を大杉漣さんが演じられました。

何か未来を言い当ててしまうことって、歌手の歌詞や、役者の芝居にはあったりするんですが、改めてこのMVを見るとそんな気がしました。

芸能人は仕事を取ってこそ生き残れる厳しい世界なので、大杉さんも、事務所の社長である奥様も、多くのオファーに真摯に応じられてきたのだとは思いますが、全身全霊で表現する仕事であるだけに、お忙しすぎたのではないかと思わずにはいられません。

ぼくは「最期の川」という作品で、大杉さんのご冥福をお祈りします。

youtu.be

 

雨あがりのステップ

SMAP稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんが、今日4日、東京の駒沢オリンピック記念公園で行われた「パラ駅伝 in TOKYO 2018」に出演しました。彼ら3人は昨年の11月にパラリンピックスペシャルサポーターに就任しています。今回は彼らが「新しい地図」として活動するなかで、ワーナー・ミュージック・ジャパンがこれに賛同し、作詞家の麻生哲朗さん、作曲の菅野よう子さんによって提供された新曲「雨あがりのステップ」を発売することとなり、今日新曲が披露されました。

ぼくは麻生さんの作品というとCHEMISTRYの作品の印象が強くて、「PIECES OF A DREAM」や「アシタエカエル」のイメージなんですが、実はSMAPにも「Dear WOMAN」や「さかさまの空」を提供されています。菅野さんは「さかさまの空」の他にも「not alone~幸せになろうよ」を提供されていますが、「花は咲く」の作曲をした方として有名かもしれません。

「雨あがりのステップ」は3月19日からitune store限定でデジタル配信し、売上金額の全額をパラスポーツに寄付されるそうです。ついさっき、Youtubeで数回、彼らが歌っている様子を見ましたが、バックの音楽がカラオケだけの割には、屋外の会場でもよく声が通って歌っていたように思いました。歌詞も曲も具体的はまだ覚えてませんが、親しみやすさを感じる、SMAPの作品を思い起こさせる仕上がりになっていると感じました。彼らのユニゾンはいつ聴いてもすっと入ってくるんですよね。

いつの間にか「新しい地図」というグループ名にされてしまってますが、昨年11月に彼らがAbema TVで72時間テレビを放送した時のテーマソング「72」は好評だったので、その後12月にデジタル配信をしました。そして、DAM★ともでも配信されるようになり、先日「72」を公開していたユーザーさんの声を聴いて、ぼくも早く歌いたいなあと思ってます。


雨上がりのステップ

ウナ・セラ・ディ東京

日本の歌謡史の中で、女性デュオとして一世を風靡したザ・ピーナッツ。活動期間は1959年2月から1975年4月までの16年間でしたが、紅白歌合戦も1959年から1974年まで16回連続出場しました。現在もザ・ピーナッツの作品はカラオケでも歌われていて、「恋のバカンス」や「恋のフーガ」はNHKのど自慢でも選曲されることがあります。ぼくはザ・ピーナッツが活躍した時代は知りませんが、youtubeで1969年の紅白歌合戦の映像を見て、彼女たちの歌声が素晴らしくて、これは日本のスタンダード・ナンバーだなあと思ったのが「ウナ・セラ・ディ東京」という曲でした。

この作品は当初、1963年11月に「東京たそがれ」というタイトルで発売されました。作詞は岩谷時子さん、作曲・編曲は宮川泰さんです。動画で岩谷さんが話されていますが、「録音の直前になって、宮川さんが曲を書き換えたので、用意していた歌詞が足りなくなってしまったの。その時に窓の外を見て、若いサラリーマンの姿がきらきらと見えて、思いついた歌詞が、「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり」だったの」だったそうです。また「ワンナイトイントウキョー」という歌詞も、当時はカンツォーネが流行していたので、イタリア語で「ウナ・セラ・ディ(una sera di。日本語では「~のある夜」の意味)東京」に直したそうです。

この「東京たそがれ」は当初売れませんでしたが、イタリアのカンツォーネ歌手のミルバ(Milva)さんが来日した際にこの曲を歌ったことがきっかけで評判となったため、編曲を東海林修さんが手掛けて、曲調の一部を変えて(ぼくはどこを変えたのかよくわかりませんが)、タイトルも「ウナ・セラ・ディ東京」と変えて、1964年9月に再発売しました。この作品で1964年の日本レコード大賞では、岩谷さんが作詞賞を、宮川さんが作曲賞を受賞しました。そして、この「ウナ・セラ・ディ東京」は多くの歌手による競作でもありましたが、当時は和田弘とマヒナスターズの「ウナ・セラ・ディ東京」もヒットして、レコード大賞の最終候補8曲の中に入っていました。今ではこの作品といえば、ザ・ピーナッツの代表曲というイメージしかないだけに、ちょっと驚きました。

「東京たそがれ」、「ミルバさんの歌唱」、「ウナ・セラ・ディ東京」のどれもいいと思いますが、ザ・ピーナッツは生歌で聴いた方がいい感じです。


東京たそがれ ザ・ピーナッツ 1963


Milva: Una Sera di Tokyo ミルバ:ウナ セラ ディ 東京


ザ・ピーナッツ ウナ・セラ・ディ東京

これはマヒナスターズとクレイジーキャッツの共演という貴重な映像です。


ウナセラディ東京・マヒナスターズ&クレイジーキャッツ

愛燦燦

日本の歌謡史におけるトップスターの1人である美空ひばりさん。1970年代から1980年代前半は、小ヒット曲は出るものの、大ヒット曲には恵まれない時期が続きました。晩年になってからひばりさんは、1987年に「みだれ髪」、1989年に「川の流れのように」の大ヒットを出しましたが、そのきっかけを作ったのが「愛燦燦」という曲でした。

この作品が生まれるきっかけは、「味の素」のCM映像のプロデューサーだった岩上昭彦さんが、バックミュージックとしてひばりさんに歌ってもらいたいと思ったことでした。天下の美空ひばりへのオファーなど無謀と思われたようですが、ひばりさんはこのオファーを受けました。CMソングは作詞・作曲を小椋桂さんが担当することで決まっていました。このCMのテーマは「家族愛」ということで、ハワイで映像が収録されていました。小椋さんは当初「轍」と題する曲を作ったそうですが、ひばりさんのレコード会社のコロムビアや、味の素から「包容力が欲しい」というダメだしを受け、作り直してできたのが「愛燦燦」でした。このCMを放送した当初、ひばりさんのクレジットは出しませんでした。でも、あの声を聴けば「これ、美空ひばりだよね」と視聴者がわかるのは当然でして、すぐに評判となったわけです。その後、「歌・美空ひばり」と表記されるようになりましたが、「愛燦燦」も徐々に浸透していったわけです。思えば、美空ひばりに求められていた歌は「人生を歌うような、スケールの大きな歌」だったんですね。そこに周りも気付いたからこそ、その後の「みだれ髪」や「川の流れのように」のリリースがあったのだと思います。

1980年代でいえば、「恋人よ」や「浪花節だよ人生は」のような作品を、もしひばりさんが歌っていたらと思う事がありました。その一方で、ひばりさんは来生たかおさん、イルカさんなど従来とは違う作家に作品を依頼し、新境地を地道に開いてきた努力もあったと思います。1コーラスの最後を、歌舞伎の見得を切るかのように締めて歌うような、従来の「ひばり節」を、「愛燦燦」では出していません。

味の素のCMというと、1986年に大ヒットした小林旭さんの「熱き心に」は味の素ゼネラルフーズの「マキシム」のCMソングに起用されました。何か因縁を感じるものがあります。

惜しむらくは、ひばりさんは病魔に侵され、1989年に亡くなってしまったことです。もし、健康な体で「愛燦燦」をはじめ、ひばりさんが「みだれ髪」や「川の流れのように」も歌い続けていたら、新たなひばりさんの全盛期があったかもしれません。しかし「愛燦燦」は多くのアーティストがカバーし、今でも歌い継がれている、ひばりさんの名曲となっています。


味の素CM87年 愛燦燦(あいさんさん)


愛燦燦/美空ひばり