DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

雨あがりのステップ

SMAP稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんが、今日4日、東京の駒沢オリンピック記念公園で行われた「パラ駅伝 in TOKYO 2018」に出演しました。彼ら3人は昨年の11月にパラリンピックスペシャルサポーターに就任しています。今回は彼らが「新しい地図」として活動するなかで、ワーナー・ミュージック・ジャパンがこれに賛同し、作詞家の麻生哲朗さん、作曲の菅野よう子さんによって提供された新曲「雨あがりのステップ」を発売することとなり、今日新曲が披露されました。

ぼくは麻生さんの作品というとCHEMISTRYの作品の印象が強くて、「PIECES OF A DREAM」や「アシタエカエル」のイメージなんですが、実はSMAPにも「Dear WOMAN」や「さかさまの空」を提供されています。菅野さんは「さかさまの空」の他にも「not alone~幸せになろうよ」を提供されていますが、「花は咲く」の作曲をした方として有名かもしれません。

「雨あがりのステップ」は3月19日からitune store限定でデジタル配信し、売上金額の全額をパラスポーツに寄付されるそうです。ついさっき、Youtubeで数回、彼らが歌っている様子を見ましたが、バックの音楽がカラオケだけの割には、屋外の会場でもよく声が通って歌っていたように思いました。歌詞も曲も具体的はまだ覚えてませんが、親しみやすさを感じる、SMAPの作品を思い起こさせる仕上がりになっていると感じました。彼らのユニゾンはいつ聴いてもすっと入ってくるんですよね。

いつの間にか「新しい地図」というグループ名にされてしまってますが、昨年11月に彼らがAbema TVで72時間テレビを放送した時のテーマソング「72」は好評だったので、その後12月にデジタル配信をしました。そして、DAM★ともでも配信されるようになり、先日「72」を公開していたユーザーさんの声を聴いて、ぼくも早く歌いたいなあと思ってます。


雨上がりのステップ

ウナ・セラ・ディ東京

日本の歌謡史の中で、女性デュオとして一世を風靡したザ・ピーナッツ。活動期間は1959年2月から1975年4月までの16年間でしたが、紅白歌合戦も1959年から1974年まで16回連続出場しました。現在もザ・ピーナッツの作品はカラオケでも歌われていて、「恋のバカンス」や「恋のフーガ」はNHKのど自慢でも選曲されることがあります。ぼくはザ・ピーナッツが活躍した時代は知りませんが、youtubeで1969年の紅白歌合戦の映像を見て、彼女たちの歌声が素晴らしくて、これは日本のスタンダード・ナンバーだなあと思ったのが「ウナ・セラ・ディ東京」という曲でした。

この作品は当初、1963年11月に「東京たそがれ」というタイトルで発売されました。作詞は岩谷時子さん、作曲・編曲は宮川泰さんです。動画で岩谷さんが話されていますが、「録音の直前になって、宮川さんが曲を書き換えたので、用意していた歌詞が足りなくなってしまったの。その時に窓の外を見て、若いサラリーマンの姿がきらきらと見えて、思いついた歌詞が、「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり」だったの」だったそうです。また「ワンナイトイントウキョー」という歌詞も、当時はカンツォーネが流行していたので、イタリア語で「ウナ・セラ・ディ(una sera di。日本語では「~のある夜」の意味)東京」に直したそうです。

この「東京たそがれ」は当初売れませんでしたが、イタリアのカンツォーネ歌手のミルバ(Milva)さんが来日した際にこの曲を歌ったことがきっかけで評判となったため、編曲を東海林修さんが手掛けて、曲調の一部を変えて(ぼくはどこを変えたのかよくわかりませんが)、タイトルも「ウナ・セラ・ディ東京」と変えて、1964年9月に再発売しました。この作品で1964年の日本レコード大賞では、岩谷さんが作詞賞を、宮川さんが作曲賞を受賞しました。そして、この「ウナ・セラ・ディ東京」は多くの歌手による競作でもありましたが、当時は和田弘とマヒナスターズの「ウナ・セラ・ディ東京」もヒットして、レコード大賞の最終候補8曲の中に入っていました。今ではこの作品といえば、ザ・ピーナッツの代表曲というイメージしかないだけに、ちょっと驚きました。

「東京たそがれ」、「ミルバさんの歌唱」、「ウナ・セラ・ディ東京」のどれもいいと思いますが、ザ・ピーナッツは生歌で聴いた方がいい感じです。


東京たそがれ ザ・ピーナッツ 1963


Milva: Una Sera di Tokyo ミルバ:ウナ セラ ディ 東京


ザ・ピーナッツ ウナ・セラ・ディ東京

これはマヒナスターズとクレイジーキャッツの共演という貴重な映像です。


ウナセラディ東京・マヒナスターズ&クレイジーキャッツ

愛燦燦

日本の歌謡史におけるトップスターの1人である美空ひばりさん。1970年代から1980年代前半は、小ヒット曲は出るものの、大ヒット曲には恵まれない時期が続きました。晩年になってからひばりさんは、1987年に「みだれ髪」、1989年に「川の流れのように」の大ヒットを出しましたが、そのきっかけを作ったのが「愛燦燦」という曲でした。

この作品が生まれるきっかけは、「味の素」のCM映像のプロデューサーだった岩上昭彦さんが、バックミュージックとしてひばりさんに歌ってもらいたいと思ったことでした。天下の美空ひばりへのオファーなど無謀と思われたようですが、ひばりさんはこのオファーを受けました。CMソングは作詞・作曲を小椋桂さんが担当することで決まっていました。このCMのテーマは「家族愛」ということで、ハワイで映像が収録されていました。小椋さんは当初「轍」と題する曲を作ったそうですが、ひばりさんのレコード会社のコロムビアや、味の素から「包容力が欲しい」というダメだしを受け、作り直してできたのが「愛燦燦」でした。このCMを放送した当初、ひばりさんのクレジットは出しませんでした。でも、あの声を聴けば「これ、美空ひばりだよね」と視聴者がわかるのは当然でして、すぐに評判となったわけです。その後、「歌・美空ひばり」と表記されるようになりましたが、「愛燦燦」も徐々に浸透していったわけです。思えば、美空ひばりに求められていた歌は「人生を歌うような、スケールの大きな歌」だったんですね。そこに周りも気付いたからこそ、その後の「みだれ髪」や「川の流れのように」のリリースがあったのだと思います。

1980年代でいえば、「恋人よ」や「浪花節だよ人生は」のような作品を、もしひばりさんが歌っていたらと思う事がありました。その一方で、ひばりさんは来生たかおさん、イルカさんなど従来とは違う作家に作品を依頼し、新境地を地道に開いてきた努力もあったと思います。1コーラスの最後を、歌舞伎の見得を切るかのように締めて歌うような、従来の「ひばり節」を、「愛燦燦」では出していません。

味の素のCMというと、1986年に大ヒットした小林旭さんの「熱き心に」は味の素ゼネラルフーズの「マキシム」のCMソングに起用されました。何か因縁を感じるものがあります。

惜しむらくは、ひばりさんは病魔に侵され、1989年に亡くなってしまったことです。もし、健康な体で「愛燦燦」をはじめ、ひばりさんが「みだれ髪」や「川の流れのように」も歌い続けていたら、新たなひばりさんの全盛期があったかもしれません。しかし「愛燦燦」は多くのアーティストがカバーし、今でも歌い継がれている、ひばりさんの名曲となっています。


味の素CM87年 愛燦燦(あいさんさん)


愛燦燦/美空ひばり

誰よりも君を愛す

平成元年(1989)年の第40回NHK紅白歌合戦では、従来の放送時間(21:00~23:45)を拡大し、19:20~20:55は「昭和の紅白」と題して、紅組からは織井茂子雪村いづみ松山恵子ペギー葉山ピンク・レディー松尾和子和田弘とマヒナスターズ都はるみの7組が、白組からは田端義夫、春日八郎、村田英雄、ザ・タイガース三波春夫千昌夫藤山一郎の7組が出場し、名曲やヒットメドレーを披露しました。この人選は昭和の流行歌をジャンルや活躍した時代を考慮して、バランス良く選んだ感じがします。和田弘とマヒナスターズは、いわゆる「ムード歌謡」というジャンルを作ったパイオニアのグループで、松尾和子さんとのデュエットによる「誰よりも君を愛す」は、1960年の第2回日本レコード大賞を受賞しました。

ムード歌謡の源流はハワイアン音楽であると言われています。1933年にホノルル出身の日系2世であるバッキー白片さんが来日しハワイアン音楽の普及を行ったり、戦後のアメリカ兵が持ち込んだハワイアンが広まり、ハワイアンを歌う日本人のバンドやソロ歌手が次々と誕生していきました。和田弘さんが演奏しているスティール・ギターはハワイアンを演奏するのに欠かせないハワイの楽器で、ウクレレと共にハワイの雰囲気を醸しだす音色です。また、ファルセットもハワイアンには欠かせない歌唱法であり、マヒナスターズでは佐々木敢一さんのファルセットは個性的でありました。そして、マヒナスターズはメンバー5人のコーラスが音に厚みを増していました。日本人にはハワイアンのサウンドは、どこか物悲しさを感じると受け止めたため、バンドがライブを行っていたナイトクラブやキャバレーの世界と相俟って、夜の世界の男と女の恋模様を舞台にした「ムード歌謡」へと変換されてしまうわけです。

懐メロ番組を見始めた頃から、マヒナスターズが歌う世界は、その時代を知らない者にとっても、個性的な歌の世界を作っているなあと感じました。DAM★ともでセルフコラボをやろうと思ったら、商標権の問題で録音ができないことになっていて、残念でした。


誰よりも君を愛す ♪松尾和子・和田弘とマヒナスターズ

強い気持ち・強い愛

DAM★ともでぼくがよく聴いているユーザーさんが先日、小沢健二さんの曲を公開していました。小沢さんは昨年、久しぶりにミュージックステーションで歌を披露し音楽活動を再開されましたが、1994年頃から1996年頃までの「オザケン」は個性的な活躍をされていました。小沢さんの作品の中で記憶に残っている曲の1つが「強い気持ち・強い愛」という曲でした。

この作品は1995年2月28日に小沢さんの7枚目のシングルとして発売されました。作詞は小沢さん、作曲は筒美京平さん、編曲は小沢さんと筒美さんの共作となっています。オザケンの音楽の作風というと、ヒップホップグループのスチャダラパーとのコラボで発売した「今夜はブギ―バック」とか、あるいは「ラブリー」や「痛快ウキウキ通り」のような、自然体で伸び伸びと好きに歌っている小沢さんの歌う姿だったりするわけですが、「強い気持ち・強い愛」のサウンドはどこか毛色が違う仕事ぶりと思っていたら筒美先生だったんですね。サウンドは売れる曲を目指してカチッと作ってますし。歌詞は都会の中で刹那に生きている若い男女が夜を彷徨っているなかで、「強い気持ち 強い愛 心をギュッとつなぐ 幾つの悲しみも残らず捧げあう 今のこの気持ちほんとだよね」とお互いの気持ちを確かめあうみたいな内容で、「渋谷系」といわれたとおり、当時の渋谷の夜の賑わいはこんな感じだったかなあと振り返っています。この作品のカップリング曲となった「それはちょっと」も筒美さんの作曲で、当初は「それはちょっと」をタイトル曲にする予定だったのが、小沢さん自身が次第に「強い気持ち・強い愛」への思いが高まって、タイトル曲になったそうです。

小沢さんの当時の映像を見ると、結構声量があって、マイクを割と離して歌ってたんですね。アイドルでもなく、大手の芸能事務所にいたわけでもないので、自由にファンキーにはじけて歌っているというのが、今となっては新鮮に映ります。「渋谷系音楽」っていうのは特にそういう音楽があったわけではなく、ちょっと知的で、ファッションセンスが高いアーティストたちが、都会の生活をテーマにした音楽を歌っていたのを、雰囲気として総称していたのかなと思います。ニュー・ミュージックの系譜を継いだ音楽なのかなとも思います。


強い気持ち 強い愛 小沢健二

少年よ

日本の歌謡界の男性ボーカリストとして長年活躍し、今も高い歌唱力を維持している布施明さん。布施さんのヒット曲は多数ありますが、21世紀に入ってからのヒット曲が「少年よ」という曲でした。

この作品は2005年3月24日に布施さんのシングルとして発売され、特撮ドラマの平成仮面ライダーシリーズ「仮面ライダー響鬼」の主題歌にも起用されました。作詞の藤林聖子さんは特撮ドラマの主題歌を多数提供されました。歌詞については、布施さんからの「自分の生き方を見つけろ」というメッセージが込められていて、それは歌詞の最後の「誰でもない自分の 生き方で それが君の響き」の一節だと思います。作曲の佐橋俊彦さんも特撮ドラマの音楽を多数作られていますが、他にも映画音楽やミュージカルなど幅広い音楽活動をされています。布施さんについては、「君は薔薇より美しい」のファンということもあり、布施さんの声をイメージして作曲されたそうです。

だからかもしれませんが、布施さんにとっては自身の歌唱力を発揮できる作品にめぐり逢い、久々のヒット曲となりました。スケールの大きな歌で、歌いがいがある作品だと思います。

2005年の紅白歌合戦で布施さんは「少年よ」を歌唱されましたが、この時はステージでは布施さんの後方で「仮面ライダー響鬼」に登場した響鬼威吹鬼轟鬼が登場し、JAEの皆さんの殺陣が披露された後、最後に響鬼役の細川茂樹さんが登場し、布施さんと握手するという、圧巻のいい演出でした。民放番組のキャラクターをこの時だけは呼んでしまうのが紅白ならではのパワーであり、醍醐味でもありました。


Kamen Rider Hibiki "Shounen Yo"

楽園のdoor

作詞家や作曲家がアーティストに提供した作品を、自らが歌って作品として発表することを「セルフカバー」と言っています。先日、DAM★ともでユーザーさんの公開曲を聴いていたら、来生たかおさんの「楽園のdoor」を歌っているのを聴きました。南野陽子さんの大ヒット曲ということぐらいしか知らずに聴いていて、何かこのアンニュイな雰囲気はまさか…と思ったら、この作品の作曲家が来生たかおさんだったんですね。

この作品は1987年1月10日に南野さんの6枚目のシングルとして発売されました。彼女の主演映画「スケバン刑事」の主題歌となり、デビュー以来初めてオリコンで1位を取りました。作詞は小倉めぐみさんで、後にSMAPの「がんばりましょう」の歌詞を提供された方です。デビューからの作品を聴いていると、当時の事務所が南野陽子に求めたアイドル歌手像というのが決められていたようで、どの作品も底流は同じ感じがします。来生たかおさんは2枚目のシングル「さよならのめまい」を、作詞の来生えつこさんと共に提供し、来生えつこさんは3枚目の「悲しみモニュメント」を続いて提供しました。南野さんは「さよならのめまい」でベスト20入りを果たし、「悲しみモニュメント」で初のベスト10入りを果たします。「楽園のdoor」は南野さんの歌声と作品がやっと1つに調和したような感じで、前作までの作品にあったどことなくまとまっていないぼやけた感じが解消されたように感じました。

さて、自分の提供した作品が大ヒットすると、来生たかおさんは他のアーティスト同様セルフカバーをするわけですが、提供した歌手の作品のイメージには触れないようにしながらも、独自の味付けをした歌の世界を表現してしまうところがあるなあと思います。薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」を、「夢の途中」とタイトルを変えてまで大ヒットさせたのがその典型です。大橋純子さんの「シルエット・ロマンス」も、「茜色のシルエット」あたりの節回しを違えて、大橋さんとは違うアンニュイな世界を作り上げた歌にしています。「楽園のdoor」も、南野さんの曲は、デビュー以来編曲を手掛けている萩田光雄さんが、南野さんのイメージに即したテンポでまとめているのに対し、来生さんのセルフカバーは清水信之さんが編曲をされましたが、歌詞は結構壮大な感じの中で、女の子がけなげに生きる道を進んでいく内容ですが、来生さんが歌うと男女の性別は超えたところで、メロウな大人の生きざまを語る歌に味付けされていて何とも渋い感じがします。来生さんは「楽園のdoor」は好きな曲なんだそうです。


来生たかお 「楽園のDoor」