DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

愛されるより愛したい

DAM★ともでは、他のユーザーさんの元歌に、自分の歌をかぶせることを「コラボ」と言っています。ぼくもそういうコラボの素材に乗っかって、自分の歌を足したものを公開することがありますが、一番多いのはKinki Kidsの曲で、その中でも多いのは「愛されるより愛したい」という曲です。

この作品は1997年11月12日に彼らの2枚目のシングルとして発売されました。作詞は森浩美さん、作曲は馬飼野康二さん、編曲はCHOKKAKUさんです。デビューシングルの「硝子の少年」は作詞が松本隆さん、作曲が山下達郎さんを起用したわけですが、「愛されるより愛したい」では、ジャニーズに縁の深い作家を集めたという感じで、森さんとCHOKKAKUさんはSMAPの作品を数多く提供していましたし、馬飼野さんは元々仕事が幅広い方ですが、ジャニーズの場合でも田原俊彦さん、近藤真彦さん、シブがき隊、少年隊への作品を数多く提供していました。この作品は当時の彼らの主演ドラマ「ぼくらの勇気 未満都市」の主題歌ということもあり、作詞の森さんはドラマのイメージも考慮して作ったそうですが、なかなかプロデューサーのOKが出ず苦労したそうです。当初のタイトルは「青春の光」だったそうですが、KinKiの2人に反対されて今のタイトルになったそうです。それで良かったと思います。「愛されるより愛したい」っていうタイトルが親しまれて、その後も歌われていくっていうのはあると思います。

「硝子の少年」がかちっとした作品であるのに対して、「愛されるより愛したい」は剛さんと光一さんがキャッチボールのように歌と踊りで呼応しあい、そしてユニゾンで調和するという、KinKi Kidsらしさを作り上げた作品だと思います。その後の「堂本兄弟」に宝塚歌劇団の方が出演されたとき、内輪の宴会では、「愛されるより愛したい」を歌って踊るというのが多かったというエピソードを披露してましたが、歌と踊りのバランスが取れて、疾走感のあるサウンドはヒットには欠かせない要素だと思います。

ぼくは、この作品は歌いやすくて、自分でもセルフコラボしたこともありますし、他のユーザーさんの歌にコラボしたことも何回かありました。剛さんパートも光一さんパートもこの作品はそれほど差がありませんが、他のKinkiの作品だと、ぼくはどちらかというと剛さんパートが多いです。

ご本人たちの映像がないので、Kinkiを歌うyoutuberさんの映像で。いつも思うんですが、右の人の声は剛さんに似てますね。


KinKi Kids 愛されるより愛したい

帰らんちゃよか

ある人が歌い始めた歌を、他の人が歌って世に知られるようになり、その歌を聴いた別の人がまた歌ってもっと多くの人に愛されるようになるということがあります。「帰らんちゃよか」という歌もそういう1曲だと思います。

この作品は1995年に歌手の関島秀樹さんが、ご自身の両親をモチーフにして作詞・作曲した「生きたらよか」という作品を作ったのがオリジナルです。その後、「肥後にわか」で名を馳せた芸人のばってん荒川さんが、1996年に芸能生活40周年記念ベストアルバム「生きたらよか」に、この作品を、歌のタイトルを「帰らんちゃよか」と変えた上で収録しました。ばってんさんにとっては「帰らんちゃよか」を歌うことは新たなジャンルへの挑戦でしたが、発売当時から好評だったそうです。そして、このばってんさんの歌を聴いて感銘したという演歌歌手の島津亜矢さんが、ばってんさんに「歌わせてください」と頼んだところ、「お前ならよかたい!大切に歌わなんぞ!」と快諾され、2004年にシングルとしてリリースされました。島津さんもパワフルな歌唱力を持つ歌手であることは知っていましたが、なかなかヒット曲に恵まれませんでした。「帰らんちゃよか」はヒット曲というわけではありませんが、多くの場所で歌うことによって作品の良さが浸透し、2015年のNHK紅白歌合戦に14年ぶり2回目の出場を果たし、この「帰らんちゃよか」を歌唱しました。その後、反響があったのは聞きましたが、1コーラスとサビで終わらせる紅白制作陣のセンスのなさは残念に思いました。

「帰らんちゃよか」とは熊本弁で「帰らなくていいよ」という意味だそうです。都会へ行った子供に対し、親のことは心配しなくていいから、自分のやりたいことをやれと励ます歌詞なので、2コーラスをフルで歌わないと話が通らない歌なんです。関島さんもばってんさんも島津さんも熊本のご出身です。ぼくは熊本弁はわかりませんけど、子供を思う親の気持ちっていうのは歌を聴いてて十分伝わりました。

同じ舞台でばってんさんが「帰らんちゃよか」を歌われた後、島津さん「帰らんちゃよか」を歌うという共演の映像がありました。


【帰らんちゃよか】 ばってん荒川/島津亜矢

ばってんさんの歌や仕草や立ち振る舞いは至芸の域に達していて、歌や芸はこうやってお客さまに伝えるものだということを、後を受け継ぐ島津さんに身をもって示しているようでした。歌の引継というのが表だって見れるのも珍しいことだと思います。2004年頃の映像で、その後2006年にばってんさんが亡くなられて、告別式で島津さんは「帰らんちゃよか」を熱唱したそうです。

また、関島さんのオリジナル「生きたらよか」は、演歌ではなく、親の心情を語るように歌われていて、地に根を張った大衆の歌、生活の歌という良さを感じました。


〝生きたらよか〟(「帰らんちゃよか」の原曲) 作詞・作曲・歌 関島秀樹

作品は三者三様、表現方法も違いますが、三者それぞれの持ち味が出ているいい歌になっています。歌い方に方程式や答えはなくて、歌は自分で答えを作っていくものだということを改めて感じた作品でした。

演歌みち

2月4日の立春を過ぎると、少しづつ日も長くなってきますけど、まだまだ寒い日が続きます。今年は周辺でもインフルエンザとか、インフルではないけど風邪が長引いてる人も結構多いです。ぼくもその1人で、カラオケに行くにはちょっとビタミンが足りないかな…という感じです。今はDAM★とものユーザーさんの歌を聴いて元気をもらってますが、自分が頑張る気持ちになる歌ということで、Youtubeで久々に見たのが「演歌みち」という曲です。

この作品は1985年6月1日に松原さんの12枚目のシングルとして発売されました。作詞は吉岡治さん、作曲は岡千秋さん、編曲は佐伯亮さんです。吉岡さんは都はるみさんの「大阪しぐれ」、石川さゆりさんの「天城越え」、岡さんは都はるみさんの「浪花恋しぐれ」、中村美律子さんの「河内おとこ節」、佐伯さんは美空ひばりさんの「柔」や「悲しい酒」、氷川きよしさんの「一剣」と、どの方も多くのヒット曲を提供されています。松原さんはデビュー曲の「おんなの出船」のイメージがあり、まっすぐ通る声を伸ばしてゆく、正統派な歌唱法で演歌を歌う方というイメージです。演歌の中でも「ど演歌」とか「男歌」に入るかなと思います。1984年12月31日に都はるみさんが紅白歌合戦で華々しく引退した後、松原さんのようなタイプは、都さんの後継者の1人であったと思います。「演歌みち」には都はるみさんの作品の雰囲気もどこか感じられます。ただ、「爪先あがりの この坂を」で始まる松原さんの歌唱は強くて若々しく、当時の森昌子さんの歌い方に似ているようにも思えます。「しんどいネ そりゃましんどいけれど エンヤコラ このみち 演歌みち」という歌詞は、辛いことや苦しいことも乗り越えて生きていこうという、いかにも演歌らしい感じがします。最近の松原さんの歌声も見ましたが、大きなご病気もされたとは思えないほど、昔と同じ声を保たれているのは、聴く側としても嬉しいところです。

歌手は声が命だと思いますが、長年歌っている中で、歌手の多くが往年の歌唱力が衰えてくるわけですが、そういう年齢になっても、いかに歌唱力を維持できるかっていうのが、大きな分かれ目だなと思います。若い頃パワフルな歌唱力で歌っていた歌手は、50代ぐらいになると長年の疲労で声に衰えが目立ってきますが、正しい発声で歌ってきた歌手はそんなに声が荒れてないと思います。松原さんもその1人だと思います。ぼくはパワーで歌うタイプではないんですけど、歌う曲によって喉声で歌ってしまったりするんで、いくつになっても自分が楽しめる歌を歌えるような発声でいけたらいいなと思ってます。


松原のぶえ 演歌みち 演歌百撰

a better tomorrow

ぼくがDAM★ともでお気に入りにしているアーティストのCHEMISTRY。彼らの魅力はその歌唱力であって、CDよりもライブで聴いた生歌の方がずしっと感じられる歌手です。それ故に、CHEMISTRYの作品の中にはとてもカラオケ向きではない難しい曲もあります。ぼくも練習してますけど、公開する気にはなれない曲がありまして、その1曲が「a better tomorrow」という曲です。

この作品は2011年2月16日に彼らの31枚目のシングルとして発売されました。元々は、2010年11月3日に「CHEMISTRY+Synergy」名義で発売した「Keep Your Love」のカップリングで、韓国語で収録されています。彼らも歌うに当たっては韓国語の指導を受けたそうです。2010年に公開された韓国の映画「無籍者(邦題:男たちの挽歌)」の全世界向けの主題歌として収録されました。CHEMISTRYは2002年のサッカー日韓W杯大会の時に、韓国のアーティストとユニットを組んで、大会テーマ曲「Let's Get Together Now」を歌った経緯もあって、映画制作側から主題歌のオファーが来たそうです。その後この映画が日本公開となったことに合わせて、もともと作っていた日本語バージョンでの作品を発売となったわけです。

映画のテーマが男たちの絆とか兄弟愛なんですが、歌詞もそうだとわかっていればなるほどなんですが、ぽくはラブストーリーの純愛な感じと勘違いしていました。主題歌ということもありますが、ストレートなメロディーで王道のバラードなんですね。堂珍さんも川畑さんも声が突き抜けるような強さと透明さを持っていて、きっと映画を見ていた方にもその歌声が届いたのではないかと思います。

ハモリは少ない方らしいんですが、サビではしっかりといつものCHEMISTRYらしいハーモニーを奏でています。ぼくもこの曲をずっと練習してますけど、こんなに声を張り続けて歌えないのが難しいところです。新曲の「Windy」も2コーラスが終わってからが、やたら難度の高い旋律が続くので、どうやって歌の雰囲気を出せるのかなあと考えてしまいます。それだけ歌いがいがあるのもぼくにとっては、CHEMISTRYが好きなところです。


CHEMISTRY - a better tomorrow

Invitation

1980年代は多くのアイドル歌手が活躍した時代で、その先鞭をきったのが1980年デビュー組でした。田原俊彦さんはその後のジャニーズ事務所の隆盛のパイオニアとなりましたし、松田聖子さんは、後に続く女性アイドル歌手の目標となっていきました。その2人に次ぐ存在だったのが河合奈保子さんでした。今になってYoutubeで奈保子さんの動画を見ていると、当時見ていた時の印象とは違って、優れた歌唱力と表現力を持っていたんだなあと思います。

「Invitation」という曲は、1982年12月1日に彼女の11枚目のシングルとして発売されました。1980年に「大きな森の小さなお家」でデビューして、「スマイル・フォー・ミー」や「夏のヒロイン」のヒット曲を出して、アイドル歌手としての人気を高めた河合さんが、アーティスト路線の曲をということで竹内まりやさんに作品を依頼し、1982年9月に「けんかをやめて」を発売し、「Invitation」はそれに続く竹内まりやさんの作詞・作曲の作品でした。竹内さんはテレビで「スマイル・フォー・ミー」を歌う河合さんを見て、「彼女はアイドルの曲じゃない、しっとりした曲も歌えるだろう」と思い、「けんかをやめて」の原曲を作っていたところ、河合さん側から作品提供の依頼があり、まさに相思相愛だったようです。「奈保子ちゃんは女の子の揺れる心を素直に歌えるけど、私が歌うとちょっとあざとい女になってしまう」と竹内さんは「けんかをやめて」のセルフカバーについて、半ば自虐的に語っていましたが、奈保子さんの歌唱法は素直に気持ちを伝えていく歌い方で、無理がないんですね。筒美京平さんは竹内さんに「今度の「けんかをやめて」はいい曲だよね」と感想を言われたそうですが、竹内さんが元々描いていた河合さんへのイメージと、河合さんがそのテーマを上手くこなしたのが作品として昇華されたのかなと思います。そして、「Invitation」はとても竹内まりやさんがセルフカバーできない、河合奈保子さんの歌の世界を一歩深めた作品だろうと思います。まだ恋をしたばかりの男子と女子のハニカミな姿を描いています。「Invitation」は男の子が「招いた人はまだ私だけだと はにかむようなまなざしで 打ち明けられた」という歌詞に出てきます。ある意味河合さんは当時、純真なアイドル歌手を演じられていたわけで、そういう彼女から着想された作品だったなあと思います。編曲は大村雅朗さんが作られましたが、サウンドは平板なんですけど、アレンジをオーソドックスに盛り上げているのが、結果としてキラキラとした作品になったという印象です。他の曲を聴いても思いますが、河合奈保子さんは難しい曲もさらっと歌ってしまっていたんだなと思います。それゆえに目立たなかったのかもしれないと思うと、惜しいなあと思います。


Invitation 河合奈保子

milk tea

DAM★ともでぼくがお気に入りにしているアーティストの福山雅治さん。でも最近は以前ほど福山さんの曲を歌ってないかもと思って、最近練習し始めたのが「milk tea」という曲です。

この作品は2006年5月24日に福山さんの21枚目のシングルとして発売されました。作詞・作曲は福山さんですが、編曲は福山さんと井上鑑さんが共同で行っています。今や福山さんの楽曲やコンサートのプロデュースには欠かせない井上さんですが、井上さんは元々大瀧詠一さんやピンク・レディーなどの作品でキーボーディストとして活動を始めた方です。1981年に寺尾聰さんの「ルビーの指環」で日本レコード大賞編曲賞を受賞して有名になりました。福山さんとの出会いは、ギタリストの吉川忠英さんの紹介で、福山さんのレコーディングに初めて参加したのがきっかけで、どうやらその曲は2000年に発売された「桜坂」の初回限定盤で収録された「春夏秋冬」(泉谷しげるさんの作品のカバー)で、吉川さんが編曲、井上さんがストリングスアレンジを行っています。その後、井上さんは福山さんのシングルの中でカップリング曲の1曲を編曲するようになっていましたが、この「milk tea」は、カップリング曲の「美しき花」「LOVE TRAIN」「あの夏も 海も 空も」も含め全4曲がすべて井上さんの編曲となった作品で、現在の福山雅治さんのサウンドの基盤ともなっていると思います。

井上さんも福山さんの武器は「あの低い声質であり、楽器のようであると思う」と言われてました。また、福山さんにコンサートでもギターを演奏する場面を増やすように提言をされています。ぼくが福山さんの曲を歌うのは、音域が低音なこともあって歌いやすいというのもありますが、やっぱり歌っていると心が落ち着くというか、特にヒトカラでまったりと歌うには適していると思います。

「milk tea」は女性目線の歌詞なんですけど、言葉の一節に福山さんの恋愛の理想が垣間見られる感じられるのがちょっと面白いです。「同じバス停 雨の坂道 一つの傘で 貰ったミルクティ 教えてくれた歌 そのすべてが暖かくて」みたいに、今みたいな寒い冬の屋外で、誰かと一緒に暖かいものを食べたり飲んだりすると、心も温まるって感じはありますよね。ぼくはミルクティよりも、缶コーヒーですね。

福山さんの曲はその声質を活かしてるんだと思いますけど、フレーズの1音目は割と低い音から入っていくんです。久しぶりに歌ってみると、その1音目が微妙にずれてしまったりして、そういう微妙な音階が、福山さんの曲の意外な難しさだったりします。


福山雅治 - milk tea 【冬の大感謝祭 其の十四】

そして、神戸

1月になると思い出すのが、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災です。当時はインターネットも普及していなくて、その日の朝から東京では「大阪と連絡がつかない」状況が続き、お昼のNHKのニュースで、高速道路が倒壊している映像を目にして、初めて大惨事が起きたことを知りました。そしてその数日後に火災の延焼が相次ぎ、神戸の長田地区をはじめ、まるで戦後の焼け野原のような光景をテレビで見て驚愕しました。ぼくも当時、震災の応援ということで神戸に赴き、青いビニールシートが貼ってある屋根の家々の間を歩き、鉄道も寸断されてましたので阪急とJRを乗り継いで動いたことを今でもよく覚えています。神戸の中心街はそれから半年ぐらいで賑わいは取り戻しましたが、今までの町を失った心の痛みはなかなか解消されなかったのではないかと思います。そういう神戸の人たちが、心の応援歌として励みにしていたのが、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」という曲でした。

「そして、神戸」は彼らの14枚目のシングルとして、1972年11月15日に発売されました。作詞は千家和也さん、作曲は浜圭介さん、編曲は森岡賢一郎さんです。オリコン最高6位となるヒット曲となり、第6回日本有線大賞を受賞すると共に、第15回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。内山田洋とクール・ファイブは昭和44年から昭和57年まで通算11回、NHK紅白歌合戦に出場していますが、昭和47年は出場しておらず、クール・ファイブとして紅白で「そして、神戸」を歌ったことはありませんでした。

また、千家さんと浜さんはこの当時作詞家・作曲家として頭角を現わしてきた頃で、2人のコンビによる大ヒット曲としては「そして、神戸」の他に、奥村チヨさんの「終着駅」、三善英史さんの「雨」がありました。千家さんは第15回日本レコード大賞では「終着駅」で作詞賞を受賞しています。

さて、1995年の阪神・淡路大震災後、ソロ歌手となっていた前川清さんは「そして、神戸」の歌詞の冒頭「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我身が みじめになるだけ」というのが気になって、この曲を歌う気にはならなかったそうです。ところが、神戸の知人から結婚式でこの曲を歌って欲しいと言われ、本当にいいのかと思いながら歌ったそうです。ところが言葉とは面白いもので、神戸の人たちは冒頭の「泣いてどうなるのか」は自分たちへの励ましだと受け取ったんですね。「そしてひとつが終り そしてひとつが生まれ 夢の続き 見せてくれる 相手捜すのよ」という歌詞も、明日への希望だと思ったわけです。元々は男と女の恋模様、別れうただったわけで、まさか神戸の応援歌になろうとは、作詞を書いた千家さんも、歌っていた前川さんも、予想だにしなかったことだったと思います。1995年の紅白歌合戦では神戸市民からのリクエストが多かったことを考慮して、「特別企画」として、前川さんは「そして、神戸」をいつものように、直立不動でマイクを離しながら、堂々と歌われました。でも、今までとは違う緊張感があったそうです。前川さんの歌唱はこの年の紅白歌合戦の瞬間最高視聴率を取りました。あれから23年経ちましたが、今を生きる日本人が大震災を経験して、その後の震災にも活かされていることが多々あったように思います。


前川清 そして神戸