DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

時の過ぎゆくままに

日本の歌謡史の中で、男性歌手のエンターテイメントの幅を大きく広げたパイオニアの1人である沢田研二さん。沢田さんは男性歌手としてセクシーさや奇抜なファッションを採り入れて、魅せるパフォーマンスを打ち出していき、日本におけるポップス・ロックの地位を向上させていった功績は大きいと思います。そして、その「沢田研二」というキャラクターに惚れこんでいたのが、日本の歌謡史に残る名作詞家の阿久悠さんでした。沢田研二さんと阿久悠さんが出会うきっかけとなったのが「時の過ぎゆくままに」という作品でした。

この作品が生まれたきっかけは、当時TBSのプロデューサーであった久世光彦さんが「沢田研二を主演にしたドラマを作りたい」と考えた中で、阿久悠さんを企画づくりに誘ったことから始まりました。「こういうドラマ発でもない限り、沢田研二との出会いも考え難かった。もしもこの機会を逃していたら、その後の膨大なヒット曲も出なかったかもしれない。そう思うと得難いチャンスであった」と阿久さんは後に述懐されています。

久世さんも阿久さんも、沢田研二の美しさは「どこかけだるさを秘めた頽廃的な美しさ」であるという点で一致し、「色っぽい歌を作りたいね」となったそうで、その時に題名は「時の過ぎゆくままに」と決まりました。この元ネタは1942年にアメリカで公開された映画「カサブランカ」の主題歌「As Time Goes By」だったそうです。そして、阿久さんが書いた詞に、当時の人気作曲家であった大野克夫、井上尭之、井上大輔加瀬邦彦荒木一郎、都倉俊一の6人に曲を作らせ、久世さんが大野さんの曲を選んだそうです。「時の過ぎゆくままに」は1975年8月21日に発売され、沢田さんにとっては、通算3作目のオリコン1位を獲得しましたが、その後の沢田さんの代表曲の1つとなりました。ぼくもこの曲は子供の頃から何となく覚えた曲で、3分ぐらいの短い曲なんですけど、ジュリーの滲み出るカッコよさは当時でも感じられました。カッコよく色っぽく歌うために参考になっているのは、ぼくにとってもジュリーなんだろうなあと思いますし、今の50代・40代の男性アーティストが子供の頃から影響を受けているのもジュリーだと思います。「時の過ぎゆくままに」は、まだ奇抜なファッションを採り入れる前の、「けだるくて頽廃的な美しさ」のジュリーの良さが感じられます。そして、忘れてはならないのは、沢田研二さんは歌詞をしっかりと伝えられる、歌唱力の優れた歌手であるということで、その上での魅せるパフォーマンスであるということです。


沢田研二 時の過ぎゆくままに

いい日旅立ち

日本の歌謡史上のトップスターの1人であった山口百恵さん。1980年に芸能界を引退後37年を経た今でも、百恵さんの作品は多くの人たちに歌われています。数多くのヒット曲の中で、今の時期になると思い出すのが「いい日旅立ち」という曲です。

この作品は1978年11月21日に、山口百恵さんの24枚目のシングルとして発売されました。作詞・作曲は谷村新司さん、編曲は川口真さんが作られました。「いい日旅立ち」は、当時の国鉄の「DISCOVER JAPAN」キャンペーンのキャッチコピーともなり、この作品はそのキャンペーンソングともなりました。この発売当時は1978年のレコード大賞を始めとする各賞レースの真っ最中でありました。百恵さんの場合は「プレイバックPart2」を歌っていましたし、この年の紅白歌合戦では19才(紅白史上最年少)での紅組トリでも「プレイバックPart2」を歌いました。だから、「いい日旅立ち」は当初は目立たなかったですが、歌詞も曲もじわじわと来るいい作品でしたから、年が明けて1979年に入ってから、ザ・ベストテンで1位になりました。国鉄のキャンペーンもこの作品の大ヒットに預かり大成功となり、1984年1月まで続いたそうです。「いい日旅立ち」のBGMは今でも新幹線に乗っていると聴くことがあります。ちなみに、「いい日旅立ち」キャンペーンを継承したのが、1984年2月からの「エキゾチックジャパン」キャンペーンです。そのキャンペーンソングは…郷ひろみさんの「2億4千万の瞳ーエキゾチック・ジャパンー」です。

さて「いい日旅立ち」は、歌詞を読むと、その情景が思い起こされるのが良くて、どの世代の方が読んでも、それぞれにその歌詞を受け止められるのがいいと思います。サビの歌詞「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」は、その後ネットワーク社会の世の中になった今では、ますます意味のある歌詞になったなあと思っています。もはや、「世界のどこかに」かもしれませんけど。主人公であるそれぞれの人が、「夕焼けをさがしに 母の背中で聞いた歌を道連れに」、「羊雲をさがしに 父が教えてくれた歌を道連れに」、「幸福(しあわせ)をさがしに 子供の頃に歌った歌を道連れに」、いい日旅立ちを続けているわけです。ぼくもいろいろな歌を傍らに生きてますし、DAM★ともを通じて、直接会うことはできませんが、多くのユーザーさんたちの歌声を聴いて、それを自分の糧にできればいいと思っています。


山口百恵「いい日旅立ち」[Digital refine ]【HD】

ある女の詩

日本の歌謡史上のトップスターの1人である美空ひばりさん。この年末年始の番組では、美空ひばりさんが1974年~1977年の大晦日に新宿コマ劇場で行ったショーの映像を放送していました。1972年まで紅白歌合戦のトリを10年連続(大トリを6年連続)で務め、歌謡界の女王であった美空さんは1973年、実弟の不祥事を契機として、紅白歌合戦への出場を「辞退」という形を取りましたが、美空さん側の受け止め方は「NHKから追い出された」という思いだったかもしれません。NHKに代わって、1973年の大晦日をひばりさんのために取り計らったのが、当時の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)で、「美空ひばりワンマンショー」を生放送しました。そして、1974年から1977年までは、新宿コマ劇場での美空ひばりショーを公開生放送しました。当時視聴率80%前後を誇っていた紅白歌合戦に真っ向勝負するのは、美空さん側の気迫が感じられるわけで、当時の映像を見ても、歌唱力はパワフルであり変幻自在さも感じます。

美空ひばりさんの映像を見て思ったのは、この人は歌手だけではなく「音楽総監督」なんだなということです。その作品が映えるように、半ば自分が足でタクトを振っているかのように演奏をちょうどいいテンポに誘導しているのかなと思う場面もありました。聴力が非常に優れていたのか、演奏の細かい間違いすらも気付いてしまっているようでした。美空さんご自身の歌い方は、歌舞伎の見得を切る所作ではありませんが、最後の一節で締めて見せる手法は好みだったようです。「ある女の詩」という曲もそういう1曲だと思いますが、AメローBメロは助走にすぎず、Cメロの最後の一節の「私の あなたでした」で、美空さんがド迫力で絶叫するんです。どれだけ色々な歌い方ができるんだろうかと感心しました。美空さんはこの曲を自身のペースでさらっと歌っていますが、今の演歌歌手がこの曲を歌っているのを聴いても、美空さんの域にはとても達していないんですね。それは技術の差というよりも、細かいところまで音程に気をつけて歌えるかどうかというところにあるように思います。


美空ひばり 「ある女の詩」

 

おふくろさん

日本の歌謡史の中で、歌唱力も高く、表現力・技巧力も優れている男性歌手の代表である森進一さん。70歳である現在も歌唱力が維持されていて、自身のヒット曲も原曲キーで歌っているのは立派なことだと思います。

森進一さんというと「演歌歌手」と思われる方が多いですが、森さん自身も「僕は演歌歌手ではなく、流行歌手である」と述べられています。森さんのレコード大賞受賞曲でもある「襟裳岬」は作詞が岡本おさみさん、作曲が吉田拓郎さんというフォーク色を織り交ぜた作品ですし、大ヒット曲である「冬のリヴィエラ」は作詞が松本隆さん、作曲が大瀧詠一さんというポップスの作品です。その他にも、ポップス・ロックの多彩なアーティストから提供されてきた作品を数多く歌っているのは、極めて希有なことであり、現役歌手の中でも、レパートリーのウィングが極めて広い「流行歌手」であろうと思います。

「流行歌手」を志向した原点は、昭和の大作曲家・古賀政男の薫陶を受けた影響もあろうかと思います。古賀さんの作品はその作風も幅広く、当時の主な流行歌手にヒット曲を提供しており、いわゆる「古賀メロディー」は「流行歌」の発信基地でありました。その古賀さんの作品を、デビュー3年目当時の森さんがカバーアルバムとして発売したのは、「流行歌手」の土台となったのではないかと思います。

いわゆる「演歌」と呼ばれる大ヒット曲も多数ありますが、森さんのハスキーな歌声を聴いていると、それは演歌というよりもブルースであり、時にソウルであると感じるものであり、北島三郎さんや五木ひろしさんが「演歌歌手」であることとは趣が異なるように思います。

1971年に発売された「おふくろさん」は、森さんの代表曲の1つであり、この年の日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞します。その時の映像を見ましたが、シャウトしながら憑依して歌うさまは、もはやロックではないかと感じます。小柄な森さんの歌の凄まじい迫力に、花束を渡そうとしている当時の横綱・輪島関も躊躇しているように見えます。


1971 おふくろさん

ぼくが今から47年前の歌に感動してしまうのは、歌に魂を感じるからなのかもしれません。今の歌は綺麗に、おしゃれになりましたけど、何かさらっとしすぎているように思うことがあります。それは一見激しくシャウトしているロックでさえも、やはり綺麗さが出すぎているように見えてしまいます。

ぼく自身も泥くさくて、魂込めた歌は歌えないので、そういう歌を歌っていた往年の歌手には尊敬の念を抱きます。

たった二年と二ヶ月で

テレビ東京系で大晦日に放送された「第50回年忘れにっぽんの歌」。この番組の面白いところは、なかなかテレビに出演しない方を歌手として出演させるところです。俳優さんだと藤田まことさん、里見浩太朗さん、松平健さん。「マツケンサンバ」もこの番組が最初だったと思います。そして、すごく有名ではないけれども、当時ヒット曲を出した歌手の方を久しぶりに出演させてしまうのが、テレビ東京の発掘力です。今回では、梶光夫さんという方が、1964年のヒット曲「青春の城下町」という曲を歌われていました。実家が宝石商ということで、長男の梶さんは1970年に芸能界を引退、現在は日本を代表するジュエリーデザイナーとしてご活躍されているそうです。そして、作詞家・作曲家の中にはかつて歌手をやっていたという方もいて、今回では、作曲家の水森英夫さんが、美輪明宏さんの思い出の歌のリクエストということで、40年ぶりにステージで歌われました。そこで歌ったのが「たった二年と二ヶ月で」という曲でした。

この作品は1971年2月に水森さんが「三音たかお」の芸名でデビューシングルとして発売されました。作詞は阿久悠さん、作曲は水森さんです。この時は全く売れなかったそうですが、その後「水森英夫」に改名してから1976年に再発売して、世に知られるヒット曲となったそうです。水森さんは1977年に歌手を引退してから作曲家になりましたが、現在では氷川きよしさん、山内惠介さん、森山愛子さんなどの門下生を育てるほか、演歌歌手のヒット作品を多数提供しています。初めて聴いた水森先生の歌声は、中低音の色気があるいい声で、節回しもこぶしもよく回っていて、歌詞の言葉もよく聴きとれて、歌上手いです。美輪さんが褒めただけのことはあると思いました。


水森英夫 作曲家 元歌手40年ぶり「たった二年と二か月」を歌う

先生が歌が上手いと、歌のレッスンを受ける氷川さんや山内さんは厳しいでしょうね。

明日へ続く道

2017年の大晦日は、テレビ東京系の「第50回年忘れにっぽんの歌」を見て過ごしました。今回は16時から22時までの6時間放送ということで、歌手の人選も演歌・歌謡曲中心ではありましたが、往年の有名な歌手を揃えました。歌う曲はその歌手の代表曲や、ヒット曲が多い歌手はちょっとひねった曲を選んで、幅広い世代が知っている曲を選んでいました。テレビ東京も音声調整を配慮していたようですが、ほとんどの歌手はいつもよりも一生懸命に歌っているように感じられました。「年忘れにっぽんの歌」は大晦日の大ホールの会場確保が難しいことから、この数年は生放送ではなく収録に変えています。そのため、この数年は番組のパワーがダウンしたように感じましたが、今回は収録の良さを生かして、思い出の名曲を有名人に聞いて、往年の歌手の映像を織り交ぜるという構成は、視聴者を飽きさせない工夫が随所に見られたと思います。正直なところ、NHKの近年の「紅白歌合戦」よりもよほど「紅白らしい」番組であったと思います。収録番組であるにもかかわらず、視聴率を8.4%確保したのは、成功といっていいと思います。

ぼくは長年、「紅白歌合戦」を欠かさず見てきましたが、この数年は「紅白」を見ない大晦日を過ごしています。「紅白」の視聴率の長期低落について、国民の娯楽の多様化や、番組における演歌歌手の減少や、若年層重視・中高年軽視といった切り口が多いです。ぼくは、「紅白」はその年の歌手の代表を選ぶものだと思ってますが、正直2017年の人選は一線級ではなかったと思います。そして演奏の問題ですが、2013年からバンド演奏ではなく、一部を除いてカラオケを使用しています。音楽番組でありながら、音を大事にしないというのがわかりません。そして、歌手の歌ですが、上手下手ではなく、口パクで紅白に臨んでもいいだろうというのもわかりません。番組の緊張感がなくなっているんだと思います。そして、放送事故レベルの司会者が連続して選ばれていると、番組が引き締まらない、緩慢でグダグダな番組を見せられるわけで、それは我慢できないという視聴者が徐々に増えているのだろうと思います。そして、「紅白」の制作陣が勘違いしているのは、今のやり方が成功していると思っていることかもしれません。ぼくは演歌・歌謡曲志向でもありませんが、子供の頃から多くの音楽番組を見て育ってきたから、その番組の面白さやつまらなさもわかります。おそらく音楽が好きな人たちの多くは「紅白」を見なくなっているかもしれません。だから「年忘れにっぽんの歌」を見るようになったのです。「紅白」というコンテンツを長年愛する一人としては、年末の風物詩としての緊張感ある純粋な歌番組へのある程度の「原点回帰」を望むところです。

安室奈美恵さんも「紅白」ではなく、「年忘れにっぽんの歌」に出た方が良かったかもしれません。そして荻野目洋子さんも、「紅白」が出してくれないなら、「年忘れにっぽんの歌」が呼べばよかったと思います。もし「年忘れにっぽんの歌」にポップスやロックの歌手を5組呼ぶことに成功したら、大晦日の視聴率は更に変動するかもしれません。

世代別とかジャンル別とか、一定のレンジにとらわれることなく、幅広い世代に浸透する音楽を作って行こうという動きは進めて欲しいと思います。

さて、年末年始も動画を見ていた中で、チェックしたのが次の動画です。


あなたの夢 わたしの夢「夢への想い」篇

アイフルの企業広告みたいですけど、この動画でユーキ役を演じている俳優の日和佑貴さんのブログを見て、見つけたわけです。日和さんも、繊細な演技ができる役者さんで、彼が書くブログも同じ世代の役者のブログとは違う雰囲気があるので、たまに見てます。挿入歌の「明日へ続く道」という歌が、聴いてていい歌だなと思いました。日和くんが歌っているのかな?作詞は荒井善博さん、作曲は岡田実音さん、編曲が高島智明さんです。岡田さんはゆずのヴォイストレーナーをされている方ですが、岡田さんのブログにもこの動画が紹介されていました。夢へのステップを進める1年にしたいですね。

翳りゆく部屋

グループでカラオケに行くと、自分が日頃歌わない歌を聴くことができて、曲も覚えることができます。男性も女性もカラオケで歌うのが松任谷由実さんの曲で、その1曲が「翳(かげ)りゆく部屋」という曲でした。

この作品は1976年3月5日に、ユーミンの7枚目のシングルとして、また旧姓の荒井由実さんの名義のラストシングルとして発売されました。この作品の編曲者でもある松任谷正隆さんと結婚する直前の頃なんですが、歌詞の内容は別れの歌なんですね。そして、メロディーはものすごくストレートというか、ピアノ1本で弾き語りが映えそうな感じがします。当時のオリコンでは最高10位のヒット曲なんですが、「守ってあげたい」のような大ヒット曲とは違って、「翳りゆく部屋」はカラオケで歌い継がれてきた曲という印象があります。歌いたいと思う理由は人それぞれでしょうが、ユーミンの歌い方が歌詞とメロディーを融合しているからなんだと思います。やや低めの少し乾いた独特の歌声が、別れの気配をかみしめている気持ちを現わしていると思います。荒井由実時代のサウンドは、シンガー・ソング・ライターらしいというか、今までにない音楽を作って行こうという気持ちが滲み出ているように感じます。松任谷由実時代のゴージャスなコンサートやイベントから振り返ると、素朴で無垢な音楽の世界があるんだなあと思います。

ユーミンは当初は結婚して引退し、専業主婦になるつもりだったそうです。編曲のパイプオルガンを聴くと、やっぱり結婚のイメージなのかなと思いますし、「翳りゆく部屋」はユーミンが思った「引退ソング」だったのかなと思います。「別れ」は独身の「荒井由実」への別れだったのかなと。でも、引退しなくてよかったです。日本の音楽に新しいスタイルを表現したことは立派な功績だと思います。


翳りゆく部屋 荒井由実