DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

Carry On

今年の東京のお盆休みは、珍しく雨空模様が続いています。キラキラ照りつける夏らしい映像の歌がないかなあと思い出したのが、EXILEの「Carry On」という曲です。

この作品は2004年5月12日にEXILEの14枚目のシングルとして発売されました。このシングルは両A面となっていて、「Carry On」のもう1曲は「運命のヒト」で、今から振り返るとお得なシングルだったなあと思います。さらに、この2曲はEXILE名義のオリジナル・アルバムには収録されたことがないそうです。本当でしょうか?

ぼくが「ヒトカラ」を始めたのもこの頃なので、「Carry On」のPVはカラオケで歌っているときもよく流れていたので、当時は6人だったEXILEのメンバーが海辺を走り回って、楽しそうな夏の光景が今でも思い出されます。

作詞は当時のボーカルでもあったSHUNさんこと清木場俊介さんが書いています。作曲は原一博さん、編曲はh-wonderさんです。原さんは「Kiss You」、「HERO」、「EXIT」など、h-wonderさんは「運命のヒト」、「Together」、「Someday」など、このお2人はEXILEのヒット曲を数多く提供されています。

「Carry On」はEXILEの作品の中では、変にかっこつけて歌わなくていい、前向きに歌える作品です。「carry on」という英語自体が、「続けていく」という意味ですが、特に、「中断した後、困難にもめげずに、続けていく」というニュアンスで使われます。

「そうさ!あの日決めた旅立ちは いつも輝く未来(あした)が待っている」
「Carry On いつか変わってしまったとしても 「自分だ!」と強く胸に云い聞かせてゆこう」
「Carry On 遠く果てしなく続く空 雨の日もどんな日も「夢」だけは捨てちゃいけない!」

SHUNさんが自分に云い聞かせている歌詞のようです。EXILEがブレイクするようにボーカルとして頑張っている当時とか、その後EXILEを卒業してソロ歌手として出発する決意をしたこととか、何か彼の思いがよく出ていたんだなあと思いました。

EXILEはこの作品で2004年の紅白歌合戦に2年連続2回目の出場を果たしました。

ぼくはこの頃のEXILEの作品が好きです。歌い方にもR&Bがまだ残っていて。当時はCHEMISTRYも人気絶頂でしたから、新しい音楽の潮流ができてきたなあと思ったものです。


EXILE『Carry On』紅白 六つの個性が織りなす最高の歌とダンス

蜜柑色の夏休み

今年はカレンダーの関係もあり、8月11日からお盆休みが本格的に始まったようです。お盆休みは毎年かちっとした期間が決まっているわけではありませんが、8月15日を中心とした約1週間ぐらいの間になることが多く、各地に住んでいる親族が実家に帰省して一堂に顔を合わせる機会にもなっていると思います。おばあちゃんの家に遊びに行っているお子さんもいると思いますが、そんな情景を歌っているのが、福山雅治さんの「蜜柑(みかん)色の夏休み」という曲です。

この作品は2001年4月25日に発売された福山さんの8枚目のオリジナル・アルバム「f」に収録されました。福山さんは自分の歌詞で、中学生以前のことを書いたことがなかったので、小学2年生~3年生の頃の福山さんのおばあちゃんとの思い出をモチーフに書いたものだそうです。

ぼくがこの作品を知ったのは、2015年に公開された映画「アリのままでいたい」の主題歌に、福山さんの「蜜柑色の夏休み」が起用されているのを聴いたからなんですが、ほのぼのする歌詞とメロディーがいいなと思いました。

「8時6分発 ヂーゼル汽車に乗って 蜜柑のおばあちゃんの 笑顔に逢いにゆこう」から、子供の小さな冒険が始まっています。いまの時刻表では、長崎駅発8時6分発の列車はないんですね…。汽車に乗って、キラキラ光る夏の海の様子が、情景が浮かぶように歌詞が書かれています。学校での勉強では得られないことを、夏休みの中でいろいろな見聞を広めたり、経験をしたりすることで、子供も一回り成長するんですよね。

夏休みは大人も見聞を広めて成長する機会だと思います。1945年8月9日11時2分に、アメリカが長崎に原爆を投下したことは、日本人が忘れてはならない歴史の1つです。その時から72年が経ちましたが、この時期に放送される幾つかの番組を見て、被害を受けた人たちやその子孫が今なお癒されない苦しい人生を過ごしていることを知りました。

そんな戦後を乗り越えて、蜜柑色の夏休みがあると思うと、安心して生活できることのありがたさを改めて感じます。


福山雅治☆蜜柑色の夏休み

 

夏をあきらめて

台風5号が日本列島の周りをうだうだと動き回って、東京は昨日の夜から半端ない酷暑が続いています。吹く風もどこか生暖かくて、真夏の夜もピークを迎えています。何か涼しげな夏のサウンドを求めて思い出したのが、研ナオコさんの「夏をあきらめて」です。

この作品の作詞・作曲は桑田佳祐さんで、オリジナルはサザンオールスターズが1982年7月21日に発売した5枚目のアルバム「NUDE MAN」に収録され、桑田さんがボーカルで歌っています。研ナオコさんはカバーということで、1982年9月5日に29枚目のシングルとして発売され、当時の人気番組「ザ・ベストテン」にも9週ランクインする大ヒットとなり、同年の日本レコード大賞で研さんは金賞を、桑田さんは作曲賞を受賞しました。

桑田さんの「夏をあきらめて」は、そのハスキーボイスが茅ヶ崎のどこか乾いた夏景色を感じさせてくれるんですが、そこにはやや蒸し暑さもないまぜている感じがします。

研さんの「夏をあきらめて」は、研さんもハスキーボイスなんですけど、独特の歌唱力が、デフォルメされた夏の一場面を切り取って描いているようで、涼しげな感じがします。

研ナオコという歌手は歌謡界の中でも特殊なポジションの歌手で、演歌歌手でもなく、歌謡曲の歌手ほどドロドロしてもいなくて、ニューミュージックの世界を巧みに歌える歌手だろうと思います。歌唱法には浅川マキさんの残影を感じるところもありますが、声を張り上げなくても歌の世界を表現できるのが素晴らしいところだと思います。

素人はカラオケで歌うときに語りながら歌うことはまずなくて、ついつい声を張り上げてしまうわけですが、それをやらないのがプロの歌手なんだと思います。


研ナオコ 夏をあきらめて (1982)

君に薔薇薔薇…という感じ

DAM★ともで最近歌っている曲が、力を入れて歌うようなバラード曲が多めだったので、ファンキーな曲も歌いたかったところ、思い出したのが田原俊彦さんの「君に薔薇薔薇…という感じ」という曲です。

この作品は1982年1月27日に田原さんの8枚目のシングルとして発売されました。作詞は三浦徳子さん、作曲は筒美京平さんです。筒美さんはこの作品で初めて田原さんに楽曲を提供した後、「原宿キッス」「ラブ・シュプール」「シャワーな気分」のヒット曲を提供します。三浦さんは「ラブ・シュプール」「シャワーな気分」の歌詞を書いています。三浦さんと筒美さんのコンビは、早見優さんの「夏色のナンシー」など、当時の女性アイドル歌手への作品でも見ることができます。

1970年代後半は歌手・作詞家・作曲家はチームで作品を作っていくスタイルがありましたから、ピンク・レディー阿久悠さんと都倉俊一さん、山口百恵さんは阿木燿子さんと宇崎竜童さん、沢田研二さんは阿久悠さんと大野克夫さん、野口五郎さんは作曲で佐藤寛さんと筒美京平さんという感じで、ライバルの歌手同士の仕事は受けないようにしていた傾向が見られます。それが1980年代に入るとライバル双方の作品を提供するようになってきます。筒美さんは、近藤真彦さんも田原俊彦さんも、野口五郎さんも郷ひろみさんも、売れてる歌手の仕事は引き受けるという感じでした。三浦さんも同様で、の松田聖子さんのデビュー曲「裸足の季節」と、河合奈保子さんのデビュー曲「大きな森の小さなお家」を同時期に提供しているのはどういう事情だったのかなと思います。

さて、筒美さんが田原さんに感じたインスピレーションは、ちょっと可愛らしく、コケティッシュで、ファンキーな要素も織り交ぜてというものだった気がします。この辺りは、宮下智さんの作品の影響があると思います。田原さんは踊りながら歌うスタイルでしたから、躍動する息づかいとか囁くような声質も曲に考慮している感じがします。この作品を歌って見ると、最初のフレーズの所は低音で歌い続けないといけないので、割に難しいです。田原さんも低音は苦手そうで、高音は伸びがあったと思いますので、サビに「薔薇薔薇」という言葉を叫ぶように歌うのは割と歌いやすいです。最後のリフレインの前の「君の魅力に 僕はAH AH AH AH 感電して Fall in love…」はいかにも俊ちゃんらしいところですが、ウィスパー・ボイスの後で高音へ伸ばしていく感じのところがぼくもお気に入りのところです。


君に薔薇薔薇… という感じ 田原俊彦 夜ヒット

雑草の泪

DAM★ともで歌える曲は膨大な数に上ります。カラオケの部屋に行くと部厚い収録曲リストの冊子が今も置いてあるお店もありますが、今は電子端末で曲を選ぶようになりました。ヒット曲の後ろには、膨大な数のさほど売れなかった曲もありますが、売れなくてもある人にとっては強い印象が残っている曲もあると思います。ぼくの場合、その1曲が、田川寿美さんの「雑草の泪(なみだ)」という曲です。

この作品は2003年9月25日に田川さんの18枚目のシングルとして発売されました。作詞は五木寛之さん、作曲は幸耕平さんで、このコンビは田川さんの前作のシングル「女人高野」に続く楽曲の提供でした。

昭和の頃の歌謡曲は「演歌」というジャンルで括っても、その中に様々な個性的な歌手がいましたが、平成に入ってからの「演歌」は歌手のバリエーションが画一的な方向になっていると感じます。女性演歌歌手はなぜほとんどの歌手が髪を結って、崩した着物の着こなしで歌わなければならなくて、歌の世界も古臭いテーマが多いのかと思います。歌手のキャラクターも似たような歌手ばかりで、これでは歌を聴こうという気持ちにはなりません。

そんな演歌を聴かないぼくでも、2002年の「女人高野」で、田川さんが着物とドレスを混ぜたような奇抜な衣装で、エレキギターを弾きながら歌ったのは、演歌のワンパターンを切り崩す画期的な試みであったと思います。続く2003年の「雑草の泪」は、ドレスを着た田川さんが、寂しさや悲しさを乗り越えるのが人生という歌のテーマを、雑草をモチーフにしながら、通常の演歌とは違う作品を作り上げています。

「道に咲いてる 名もない花にも きっと名前も 大事な夢もある
 こんな切ない 世の中だけど 私は泣きません」
「雨に濡れてる 小さな草にも 口に出せない こころの傷がある
 ひとりぼっちは 淋しいけれど 私は泣きません」

ぼくは五木寛之さんの小説を読んだことはありませんが、好きな歌の歌詞が五木さんの歌詞だったということがいくつかありまして、「雑草の泪」のこういう歌詞の視点がいいなあと思います。昭和天皇が植物の研究をされている中で「雑草という草はないんだよ」と侍従にお話されたエピソードを思い出しましたが、人でも草花でも、そこにいることの意味や価値というのを、それぞれが尊重して共生していくのが、世の中の一番のルールだなと思います。DAM★ともも、それぞれのユーザーさんが公開した曲には、そのユーザーさんなりの思いがあるということを認識しながら、気分転換も兼ねてゆったりと聴いています。


田川寿美 雑草の泪

さよならの向う側

ヒット曲を歌った歌手は数多くいますが、その時代に影響を与えた歌手となると限られてきますが、山口百恵さんはその1人だと思います。1973年5月21日に「としごろ」でデビューし、1980年10月15日に引退するまでの約7年間、歌手としても女優としても人気を博しましたが、三浦友和さんとの結婚を発表してから引退までの約1年間は「百恵ブーム」が最高潮に達しました。トップで活躍している歌手が、結婚して芸能界を引退するというのは、それまでの芸能界の感覚では信じられないことでしたし、百恵さんの潔い決断を一般大衆もあたたかく受け入れたことも大きかったと思います。その百恵さんが引退前に発売した最後のシングルが「さよならの向う側」という曲でした。

この作品は1980年8月21日に、山口百恵さんの31枚目のシングルとして発売されました。作詞は阿木燿子さん、作曲は宇崎竜童さん、編曲は萩田光雄さんで、百恵さんの後半期のシングルを何曲も提供してきたチームです。文字通り、百恵さんの引退のはなむけのために提供された作品で、宇崎さんもこの作品については「直球、ストレートに作った」とコメントされています。歌詞も、数多くの「あなた」への感謝が綴られています。何億光年輝く星にも寿命があると教えてくれたあなた、季節ごとに咲く一輪の花に無限の命があると教えてくれたあなた、眠れないほどに思い惑う日々を熱い言葉で支えてくれたあなた、時として一人くじけそうになる心に夢を与えてくれたあなた。百恵さんを支えてくれたファンやスタッフへの感謝も込められています。そして、そんな「あなた」のことは忘れないと言っています。あなたの燃える手、あなたの口づけ、あなたのぬくもり、あなたの呼びかけ、あなたの喝采、あなたのやさしさ、そしてあなたのすべてを。そして私のうしろ姿は見ないでください、あなたのうしろ姿も見ないでゆきます、約束なしのお別れです、今度はいつと言えませんと、これは芸能界からの決別という百恵さんの強い意思を汲んだ阿木さんが書いたのだと思います。百恵さんの引退後、都はるみさん、森昌子さんも引退しましたが、結局復帰しました。高田みづえさんも1日だけ復帰しました。でも百恵さんは決して復帰はしませんでした。それが偉いと思います。

「さよならの向う側」は、百恵さんの引退向けではありましたが、楽曲としてはきちっとしたバラード曲になっている良い作品だと思います。だから、この作品は日本の歌手だけでなく、レスリー・チャンをはじめアジアの歌手も数多くカバーしています。ただ、百恵さんの引退曲というイメージが強すぎるため、聴く者としてはカバーされた歌をしっかりと昇華できない感じがしました。それとこの作品は、ぼくも歌ってみましたが、音程を安定して歌い続けるのが意外に難しい曲だと思いました。山口百恵さんの歌唱力の強みは安定感のある歌い方にあったと思いますが、その強みをこの作品でも生かしていているように思います。

最近、Youtubeで、百恵さんの長男である歌手の三浦祐太朗さんが「さよならの向う側」を歌っているのを見たんですが、他の歌手のカバーを凌駕する歌だったので、とてもいい歌だと思いました。その歌番組に共演していた宇崎さんが「DNAを感じる」とコメントされたのが秀逸で、歌唱力だけでは習得できない遺伝子の力が加わっているようでした。森山直太朗さんの歌を聴いたとき、その後ろに森山良子さんを感じたのと同じ感じでしょうか。それまで祐太朗さんの歌を聴いたことはあったんですが、あまり感情が表に出ない声なので、いい声質なんですけど、もっと表現をつけてもいいのにと思ったことがありました。今回、祐太朗さんは母の歌をカバーすることには葛藤があったそうです。でも、それが良かったと思います。歌に祐佑太朗さんの気持ちが乗っかるように聞こえ、歌が上手くなったように感じました。宇崎さんもそれを感じていたように思います。


さよならの向う側 三浦祐太朗

チャイナタウン

7月24日、作詞家の山川啓介さん(本名 井出隆夫さん)が亡くなられました。ぼくはDAM★ともでも山川さんの作品を歌って公開してきました。「山川啓介」としての作品では、野口五郎さんの「グッド・ラック」、いずみたくシンガーズの「帰らざる日のために」、岩崎宏美さんの「小さな旅」、「井出隆夫」としての作品では、花田ゆういちろうさんの「そよかぜスニーカー」などです。山川さんは職業作詞家を自任されていましたが、作られる歌詞は流行歌のためだけの歌詞だけではなく、一つの詩として言葉を綴っていかれたように感じます。だから、言葉が綺麗で、凛としているというのがぼくの印象でした。

山川さんの訃報に接し、矢沢永吉さんが「盟友が亡くなったんだなあとしみじみ感じました」とコメントを出されました。矢沢さんがこういったコメントを出すのは異例だと思いますが、改めて山川さんのインタビュー記事を読んでいたら、矢沢さんについて語っているところがありました。山川さんはいずみたくさんとの出会いで青春ドラマの主題歌を担当することになり、青い三角定規の「太陽がくれた季節」や中村雅俊さんの「ふれあい」が大ヒットし、職業作詞家の仲間入りをすることができました。しかし、それで「青春歌謡作家」のイメージがついてしまい、苦労していた。そこから抜け出せたきっかけとして、まず「藤田敏雄先生と一緒に訳詞の仕事を手掛けたこと」を挙げています。藤田敏雄さんは、日本の創作ミュージカルの草分け的存在の方で、現在も続く音楽番組「題名のない音楽会」の企画構成をされました。そして、山川さんがジャズドラマーの猪俣毅さんに依頼されて、洋楽曲の訳詞を書いたところ、バックバンドのギタリストだった水谷公生さんが矢沢さんに「こういう詞を書くのがいるよ」と話したら、矢沢さんが会ってみたいということで、山川さんとの出会いが始まったわけです。

矢沢さんはキャロル解散後、ソロシンガーとして活動していましたが、キャロルのイメージを捨て、新たな挑戦を試みていた時期でもありました。当時はニューミュージック全盛期で、シンガーソングライターのスタイルが主流でしたが、矢沢さんは「俺より詞のうまい奴はいくらでもいる。無名でもいいから、詞は俺の思いを伝えてくれる奴に頼みたい」という考えを持っていました。山川さんは、矢沢さんから送られてきたデモテープを聴いて、矢沢さんは英語で仮歌を歌っているんですが、矢沢さんのノリや特徴から「こうしたいんだな」という思いを掴んで、詞を書いたそうです。山川さんは矢沢さんに詞を提供するなかで、これまでの青春ものとは違う、自分らしい詞が書けたことは大きかったと述懐されています。

こうして、1978年3月21日に発売された「時間よとまれ」はミリオンセラーの大ヒットとなり、矢沢さんはソロシンガーとしてもメジャーアーティストに「成りあがり」を果たしました。そして、この「時間よとまれ」のB面に収録されたのが「チャイナタウン」でした。今では多くの人に知られる名曲ですが、山川さんも矢沢さんも、歌謡曲でもニューミュージックでもないところで、大人の男性の生きざまをテーマにして作品を作ろうという2人のシンパシーが化学反応を生んだのかなと思います。山川さんはこれを機に、訳詞はもちろん、歌謡曲もアニメも手掛け、子供番組の歌づくりにも積極的に取り組まれ、ジャンルにとらわれない音楽活動を続けられました。矢沢さんも、山川さんは一緒に自分を押し上げてくれた「盟友」だと思っていたんですね。人生の盟友に出会えたことは、すごく幸せなことではないかと思います。


矢沢永吉・プロモ・チャイナタウン