DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

うたかた

日本の歌謡史の中で、時代を動かし爆発的なブームを巻き起こしたアーティストの第一人者は、ピンク・レディーであったと思います。ピンク・レディーはデビュー前のターゲット層としては中高年に狙いを定めていたんですが、デビュー曲「ペッパー警部」での今までになかった激しい振付と、個性的でスタイリッシュなステージ衣装が反響を呼び、当時の子供たちが歌と振付を覚えようというムーブメントが広がり、発売する曲が次々とミリオンセラーになる一大ブームへとつながっていき、1978年にはアイドル歌手としては初めて、「UFO」で日本レコード大賞を受賞しました。

しかし、この年のNHK紅白歌合戦の出場辞退を発表(今とは違い、当時出場辞退を発表というのは、前代未聞のことでした。)し、アメリカでの音楽活動を開始すると同時に日本での人気は急落することになり、1980年9月1日に解散を発表し、1981年3月31日に後楽園球場で解散コンサートを開催しましたが、同時期に解散したキャンディーズや引退した山口百恵さんの盛り上がりに比べて、対照的に寂しさを感じる幕切れでした。

当時の芸能界やマスコミは、ピンク・レディーの紅白辞退・アメリカ進出という行動に批判的であったため、テレビから彼女たちを外していく流れが出来てしまい、アメリカ進出も当時は「失敗だった」という論調でした。しかし実際は失敗ではなく、彼女たちが進めてきたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」はビルボード総合37位を記録し、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組「ピンク・レディー・ショー」を持つなど確実に実績を積んでいました。ショー・ビジネスのエンターテイナーとしての実力をつけて日本に帰国したにもかかわらず、日本では彼女たちを受け入れようとしなかったのは残念な環境であったと思います。

そんなあまり知られていないピンク・レディーの動画を見ていて、いいなと思った曲が「うたかた」という曲でした。この作品の原曲は、彼女たちが1979年6月1日にアメリカで発売されたアルバム「PINK LADY」に収録された「Strangers When We Kiss」(作詞・作曲:Michael Lloyd)でした。この曲に、三浦徳子さんが日本語詞をつけて、川口真さんが編曲したものを「うたかた」として、1980年9月21日に発売されました。

ミーさんとケイさんも、全米発売のアルバム作成では、ウィスパー的な歌い方など、全体的にそれまでのピンク・レディーの発声法とは違っていて、本人たちも勉強になったし自信に繋がったとコメントしていますし、「うたかた」についても、「特に気に入っている1曲で、自分たちのノリや精神に合っている曲だ」とコメントしていました。しかし、日本では大ヒットはしませんでした。

当時のフジテレビの人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」での動画を見ましたが、歌の完成度が高くて、一連の大ヒット曲のように、元気でフルパワーで歌って踊ってというピンク・レディーとは一味違って、魅せるステージ力がアップしているように感じました。「夜ヒット」では、彼女たちが歌っている後ろには共演の歌手たちが座っているわけですが、1コーラス終わった後から、歌手たちが立ち上がって応援し始めたのが、ある意味パフォーマンスの良さを象徴しています。

実力をつけたのに人気が落ちてしまったら、人気歌手としての彼女たちは立ち位置や将来を悲観したと思います。しかし、1981年の解散後、年月を経て彼女たちは再結成という形で、ブームだった頃よりも歌も振付もパワーアップしたパフォーマンスを披露しました。NHK紅白歌合戦にはその後1989年、1990年、2000年に出場しヒット・メドレーを披露し、2017年、2018年には日本レコード大賞で6分近いノンストップ・メドレーを披露しました。結成して40年以上を経たいまも、あのパワフルな曲を歌って踊れるのはもの凄いことだと思います。その基礎を培ったのは、当時日本では理解されなかった全米での音楽活動で学んだことにあるのではないかと思います。正しいと思って努力した音楽活動は、その後必ず良い結果をもたらすと思います。ぼく自身の音楽活動もそうなりたいと信じて進みたいと思います。


うたかた ピンクレディー

夢追い酒

2019年の大晦日、ぼくはテレビ東京系「第52回年忘れにっぽんの歌」を見て楽しみました。生放送ではなく12月中旬に公開収録された番組ですが、生放送の「NHK紅白歌合戦」よりもよほど大晦日感を味わえる番組になっていると思います。

6時間放送しますので出演する歌手も多数であり、いま活躍している歌手の方だけではなく、往年のヒット曲を持つ歌手の方や、日頃歌番組には出演しない俳優の方など多彩です。また、歌のジャンルも演歌・歌謡曲以外からも一定に選ばれているのも、趣向を凝らしているように思います。

ぼくもカラオケ大会で歌うようになったからかもしれませんが、歌番組を見ていても、歌手の歌い方を今まで以上にじっと見て、よく聴くようになりました。感心するのは、ご自身のヒット曲を長年、高い歌唱力と表現力でキープしている歌手の方が本当に多いことでした。一方残念ながら、長年歌い続けた結果喉が劣化してしまい、往年の歌声を披露するのは無理な歌手の方を見ると、プロで生き残る過酷さもまた感じるところがあります。

ぼくが久しぶりに歌を聴いて、やっぱり上手いなあと思ったのが、渥美二郎さんの「夢追い酒」という曲でした。渥美さんは高校を中退後、地元・東京の北千住で「流し」の歌手として活動を始めました。

「流し」というのは、ギターやアコーディオンなどの楽器を持って酒場などを回り、お客さんのリクエストに応えて、お客さんの歌の伴奏をしたり、自分の歌を歌う職業です。その中でも演歌専門で歌っている「流し」は「演歌師」と呼ばれることもあります。カラオケの普及に伴って、「流し」の方はピークだった1960年代よりは激減しましたが、今も「流し」として音楽活動をしている方は多くいらっしゃいます。

そして渥美さんは1975年4月に本名の渥美敏夫名義でシングル「裏町」を発売しデビュー、その後5枚目のシングルとして1978年2月25日に発売されたのが「夢追い酒」でした。発売当初は売れなかったものの、渥美さん本人が全国を地道に回るプロモーション活動を続けた結果、1978年12月に日本有線大賞敢闘賞と全日本有線放送大賞努力賞を受賞しました。これを機に、1979年の大ヒットへと繋がりました。オリコンでは最高2位だったものの、100位以内に通算109週ランクインするロングセラーとなり、1979年のオリコン年間シングル第1位を獲得するとともに、1979年の日本レコード大賞ではロングセラー賞を受賞、1979年のNHK紅白歌合戦にも初出場しました。

渥美さんの「夢追い酒」を聴いていると、歌に誠実さが感じられるんです。それは正調な演歌であり、かといって音程が正確なだけののっぺりした歌ではなくて、そこには渥美さんの歌の味があって、妙に感情的でもどろっとした歌でもなくて、さっぱりとした良質さを感じます。30年前にはがんの大病を患ったそうですが、そういうことは全く感じさせない、歌い続けて50年を迎えても、変わらない高いレベルの歌声を保っていることは、ご本人の努力が凄いのだろうと感じさせます。この大晦日に、こういう歌を聴けて良かったなあとつくづく感じました。

ぼくはアマチュアの歌好きに過ぎませんけど、嫌味のない歌を歌いたいなあと思います。歌ってすごく正直なところがあって、歌っている自分のいい面も悪い面も、見せたい面も見せたくない面も、絶妙に表に出てしまうものなんです。歌を通じて、ぼくという人となりが全部見られてしまっているというか。だからこそ、歌を聴いて頂く方に気持ちよく聴いて頂きたいと思うようになりました。そして、関心を持って聴いて頂けるような歌を歌えるよう、2020年も成長したいと思います。


夢追い酒(夢追酒) - 渥美二郎( あつみ じろう )

歌える幸せ

2019年もあと2日と数時間。ぼくのカラオケ歴の中で今年は本当に濃厚な1年でした。ずっとDAM★とも一人カラオケで歌っていたぼくにとって、昨年2018年は、初めてカラオケ大会に出て、人前で歌うようになった大きな変化の1年でした。今年は昨年以上に多くのカラオケ大会に出ることができました。そして、カラオケ大会に1回、2回と出ることによって、「歌」を通じて、日常の生活ではきっと出会わなかったと思う、多くの方々に出会うことができました。

Twitterもカラオケ大会に出たのを機に始めましたけど、まだ交流を始めようとは思いませんでした。今年の2月にジェネステ2018DAY-2の東京第一会場大会と東京第二会場大会に出た頃、やっと気持ちの余裕が出て、他の方の歌を落ち着いて聴くことができるようになって、歌っている方への関心が芽生えてきました。そして、ぼくがフォローしているのが今121人。一方でフォロワーの方も1人、2人と増えて、今138人。他の方に比べたらその数は圧倒的に少ないですけど、カラオケ大会でのぼくの歌とか、Twitterでのぼくのツイートとか、何かがきっかけでぼくに関心を持ってくださったことが何よりも嬉しかったです。

4月には初めて東京以外で、ジェネステ2018DAY-2の大阪第三会場大会への遠征に行きました。自分のスケジュールの都合でしたが、関西の超歌うまさんの生歌を聴くことができた貴重な機会でした。我々アマチュアはエントリー料を支払ってカラオケ大会で歌うことができるわけですが、その大会に出たことによって得るものが多ければ多いほど、ぼくにとってはエントリー料以上の価値があったと実感しました。このとき、採点チャレンジで3位となり、令和チロルチョコとパズルを頂きました。

自分の周りでは「歌上手いよね」と言われても、所詮井の中の蛙でした。カラオケ大会に出ても入賞しないで帰る回が続いたり、音源審査を出しても通過しなかったり、そんな結果の後は大抵「ぼくって、歌下手なのかな」と凹み、悩んでしまう時もありました。そんなときに考えるヒントを与えてくれたのは、歌に関わる方のツイートでした。

そのおかげで、6月に出た全日本カラオケバトルの御茶ノ水予選大会で4位入賞を頂き、9月に出たTHE KARAOKEの第4回東京大会で審査員特別賞を頂くことができました。自分から「入賞しました!」と言えない性格なので発信はしないのに、大会情報は早く出回るせいか、祝福のツイートをしてくださるフォロワーさんって温かいと感じています。

9月には日本カラオケボックス大賞の東京代表選考会に出場しました。10月・11月は、カラオケ大会で歌える曲の幅を広げたいと思い、ポルノグラフィティの曲に挑戦しました。こうして、今年の歌い納めは昨日、THE KARAOKEのグランドチャンピオン大会でしたが、残念なことに25日から急に咳と熱が酷くなり、声は中低音は出ますが高音が地声では出ない状況でした。この年末の大会を楽しみにして、風邪も感染しないように注意していたのに、24日まで何でもなかったのに、どうしてこうなるんだという悔しさで一杯でした。日頃の「歌える幸せ」を改めて実感し、今の「歌えない不幸せ」の辛さや悔しさをステージで味わった方がいいと判断し、強行して出場しました。昨日ぼくの歌を聴いた方は「今日はどうしたの?」って感じだったと思います。それでも主催者の方も審査員の先生も出場者の方も観客席の方も温かく対応して頂きました。本当にありがとうございました。

カラオケ大会に来ると、未成年の歌うまキッズや20代の歌うまさんたちが本当に多く出場されています。小さい頃から、若い頃からこういう経験を積んでいけば、どんどん歌もパフォーマンスも成長していくと思いますし、そういう方々が歌っている姿を見ているとなぜかぼくも嬉しいんです。ぼくは小さい頃や若い頃は残念ながらカラオケ大会で歌える環境ではありませんでした。やっと今「歌える幸せ」を感じる場所に立てるようになったばかりです。年末のリベンジは、2020年の大会で果たします。

わが美しき故郷よ

ぼくは音楽や歌は好きですけど、キー局の音楽番組は最近はほとんど見ていなくて、逆に地方局の音楽番組を見ることが多いです。テレビ神奈川tvk)で毎週火・水・木の深夜に放送している「青春音楽バラエティ「𠮷井さん~オヤジの音楽狩り~」もよく見ている番組の1つです。メジャーなアーティストだけではなく、様々なジャンルや世代のアーティストを紹介しているのがいいと思っています。先週の放送を見ていた中で、誕生日が近い2人のアーティストが一緒にコンサートを開催するお知らせがあり、アーティストの歌を紹介したときに、ふと目に止まったのが、畠山美由紀さんの「わが美しき故郷よ」という曲でした。

畠山さんは宮城県気仙沼市出身のシンガー・ソング・ライターで、2001年に歌手としてソロ・デビュー後、音楽活動をされていらっしゃいます。2011年3月11日の東日本大震災で、気仙沼は大きな津波の被害を受けました。畠山さんは自身の故郷である気仙沼を想った詩「わが美しき故郷よ」を雑誌やブログに発表すると、被災した方たちだけでなく全国の各地で反響を呼ぶこととなり、2011年12月には、デビュー10周年を記念した5枚目のアルバム「わが美しき故郷よ」を発売し、この曲は詩の朗読とともに、歌としても収録されました。

ぼくは初めて畠山美由紀さんというアーティストを知り、「𠮷井さん」では聞き逃した箇所も含めて、改めて「わが美しき故郷よ」を聴きました。その歌詞は、故郷で生まれ育った日々を、四季の移ろいを、素直に言葉にしていった感じのものでした。「潮風に抱かれて 暮らしてきたの ささやかな毎日を 暮らしてきた」という一節に、ぼくは故郷を愛する思いがずっしりと伝わってきました。そのささやかな毎日を、生きてきた街を、地震津波によって一瞬にして失われてしまったことの悲しみの深さが感じられてなりませんでした。畠山さんの歌は、そういう歌詞にメロディーを乗せて、一節一節に静かな想いをこめて歌われているように感じました。決して、歌の歌唱力や技術力を前面に出すのではなく、想いのある言葉を伝える歌であるからこそ、この歌が多くの人たちに共感を呼んだのだろうと思います。

東日本大震災の後、多くのアーティストたちが口にされていた言葉は「自分たちの仕事で、何ができるのだろうか」という自問自答のような言葉でした。歌は人を元気にしたり、励ますことができると思います。ですから、苦しいときに、歌は心の癒しになるわけで、大いに人々の生活に役立っていると思いました。今も気仙沼の街では、この「わが美しき故郷よ」の歌が流れているそうです。


畠山美由紀 わが美しき故郷よ

恋唄

カラオケ大会に行くと、出場者が選曲するアーティストにも傾向があるなあとつくづく感じます。その代表の1人ともいえるのがMISIAさんです。MISIAさんが歌い上げるバラードに感銘を受ける女性が多いんだと思います。1つの大会で3回ぐらいはMISIAさんの曲を聴くことが多いです。そして、MISIAさんの曲を歌った方のうち1人は少なくとも入賞しているように思います。9月に出たカラオケ大会では入賞した5人のうち、3人がMISIAさんの曲で、他のアーティストだったのが優勝した方とぼくの2人でした。この3人のうち、1人は男性の方で、「男性もMISIAを歌うんだ」と感心しました。11月に出たカラオケ大会でも、男性の方がMISIAの曲を歌われたんですが、歌う前のMCで「ボイトレの先生から、この曲が合うんじゃないかと言われて、1ヶ月で覚えた」みたいな話をされたんですね。

ぼく自身はMISIAさんの曲はそれまで歌ったことがありませんでした。また、MISIAさんの曲には興味がありませんでした。でも、この数ヶ月で沸々と湧いていたのが、ぼくもMISIAさんの曲を歌ってみたいなあという気持ちでした。

ぼくに歌える曲を探してみようと、MISIAさんの曲を、曲名を検索しては片っ端から聴いてみました。さっき、興味がないと書きましたが、デビュー直後のシングルやアルバムは買っていました。MISIAさんがデビューした1998年の頃は、日本的なR&Bサウンドが芽生え始めた頃でもあり、数年後にEXILECHEMISTRYが登場するわけです。ぼくはR&Bとか、ポップなメロディーを歌う、初期のMISIAさんの歌が好きだったんですが、次第に「Everything」のような歌い上げるバラードが大ヒットしていくようになって、あまり聴かなくなっていきました。今回、MISIAさんの曲を聴いて、彼女の歌い上げるスタイルは、我々が計り知れない努力の賜物なんだとは思いましたけど、余りにもその歌が超個性的すぎるゆえに、自分で歌ってみたいとは思わないんですね。特に、カラオケ大会でも聴くようなバラード曲は、自分には歌えないと思いました。DAM★ともで歌えるMISIAさんの曲は223曲ありました。MISIAさんだってバラードばかり歌っているわけではないと思うし、せっかく歌うなら、自分に合いそうな、歌えそうな曲を探してみようと思いました。それで、「これならいいかな」と思ったのが「恋唄」という曲でした。

この作品は、2002年9月26日に発売されたMISIAさんの4枚目のアルバム「KISS IN THE SKY」に収録された1曲でした。このアルバムでは、B'zの松本孝弘さんがこの「恋唄」と「Don't stop music!」の2曲を楽曲提供し、ギターを演奏しています。MISIAさんは以前から松本さんを尊敬していて、松本さんのギターソロアルバムを聴いたのをきっかけに、自分の曲をオファーしたそうです。「華」というアルバムには、字はやや違いますが、「恋歌」という曲も収録されています。


松本孝弘「恋歌」

B'zの曲を聴いていると、時にオリエンタルの雰囲気を漂わせるメロディーを奏でることがあるなあと思いますが、このギター・ソロにもそういうものを感じます。この当時の松本さんは、海外公演を通じて、自分が東洋人であることを強く意識されたそうで、そういう思いがこういうメロディーを生み出しているのかもしれません。

そして、MISIAさんが作詞し、松本さんが作曲した「恋唄」は、その歌詞にはいまの日本の夏や秋の情景を思い起こさせる言葉があり、一方で古の時代から今に至るまで、幾千の時の中で、幾線の星の数ほど、歌い続ける「恋唄」という言葉には、万葉集源氏物語といった古典の世界も感じさせてくれる、時空を超えたスケールを歌にしているのが、いい歌だなあと思いました。この日本的な歌詞に、松本さんが作られたオリエンタルなメロディーはどこかドラマチックであり、またポップであり、アレンジにはR&Bにベースを置いているので、ぼくも受け入れやすかったのかもしれません。

先日、初めて「恋唄」をDAM★ともで歌ってみましたが、同じフレーズが繰り返されるので、平坦にならないような歌い方の工夫が必要だなと思いました。MISIAさんはそこを飽きさせないように歌っているのが、さすがだなと思います。


MISIA - 恋歌 - LIVE 2003

ワン・ツー・スリー!

NHKEテレの人気番組「おかあさんといっしょ」。1959年10月5日の放送開始以来、今年で60年を迎えた、NHK及び日本を代表する番組の1つです。子供向けの教育・音楽番組なんですけど、番組内で歌われる「今月の歌」は有名な作詞家・作曲家の方が作られていて、いい曲も結構多いので、大人のぼくも割と楽しんで見ています。

「今月の歌」は、3月・8月・12月を除く毎月、番組オリジナルの新曲が、うたのおにいさんである花田ゆういちろうさんと、うたのおねえさんである小野あつこさんによって披露されます。毎月、新曲を覚えるのも大変な仕事だと思いますけど、4月からはたいそうのおにいさんとおねえさんも一新したので、パフォーマンスとして魅せるための振付も更に激しくなってきていて、その練習時間って多いんだろうなあと想像してしまいます。それに比べて、カラオケで好きな曲を歌っているのはよほど楽だなと思います。

さて、2019年の「今月の歌」を振り返って、ぼくが歌ってみたいと思ったのは、7月の歌だった「ワン・ツー・スリー!」という曲でした。作詞は坂田めぐみさん、作曲は坂田修一さん、編曲は池毅さんです。坂田修一さんは「おかあさんといっしょ」の7代目うたのおにいさんとしても活躍した坂田おさむさんであり、「今月の歌」へも数多くの楽曲を提供しています。坂田めぐみさんは坂田おさむさんの娘さんであり、歌手としても活躍されています。池さんは子供向け教育番組への楽曲を始め、アニメソングやコマーシャルソングを2,000曲以上提供されていますが、歌手としても長年活躍されています。

子供に伝わるための歌ですから、メッセージがはっきりとしていて、わかりやすいものでないといけないんだと思います。Aメロでは「うさぎのようにホップ!」「ひよこのようにステップ!」「うちゅうに向かってジャンプしよう」と、動物を例えに出して、ホップ・ステップ・ジャンプと前に跳んでいくことを教えて、サビでは「ワン・ツー・スリーでいこうよ! おほしさまからの メッセージ いっぽいっぽ すすめば ゆめはかなうものさ」と、努力することを教えるという、情操教育的にはいい歌だなあと思います。アレンジはロック調にしているのが面白くて、だからこそ音のメッセージが明確に伝わるように思います。そして、歌詞は元気いっぱいな内容なのに、曲調はどこか明るくなくて、物悲しさや哀愁を秘めているのが一ひねりしてますけども、きっとこういうメロディーの方が子供たちの音感には響くのかもしれません。そして、一緒に見ている大人にも、忘れていたことを思い出させてくれる何かがあるのかなと思っています。もっと素直に物事を見るとか、雑念を捨てて表現してみるとか、それは人によってそれぞれだと思いますけど。歌でもそうなのかなと。ここはこうしなきゃいけないんだと勝手に決めているけど、それ以外の表現ってあるんじゃないのかなとか。自分はここまでしかできないから、と自分の中でどこか予防線を張っているものって、本当にその一線を超えちゃいけないのかなって。ロンバケの瀬名君も「壁」を取っ払って、世界的なピアニストへの道を歩んだように、大人になって作ってしまった一線や壁を超えてこそ、子供のようにジャンプができるのかなって思います。


【ワン・ツー・スリー!】おかあさんといっしょ/花田ゆういちろう・小野あつこ 人気曲 cover

島唄

世に知られたヒット曲を振り返ると、歌詞やメロディーやアレンジも強烈なインパクトがありますが、やはりその曲を歌う歌手の個性が際立っていると感じることが多いです。それゆえに、ぼくのようなアマチュアがそういうヒット曲を歌うときは、まずオリジナルの歌手の歌い方をCDや動画で確認して、その歌手の雰囲気に寄せて歌おうとします。しかし、オリジナルの歌手の真似をしているだけでは、その曲の雰囲気は壊さないかもしれませんけど、一方で自分が本来持っている歌の個性を打ち消してしまっているかもしれないと思います。

もっと難しいのは、その土地や地域に根ざして伝承されてきた歌であり、例えば、ポルトガルのファドであったり、イタリアのカンツォーネであったり、フランスのシャンソンであったり、日本の民謡であったりします。母国の民族ではない日本人が、ファドやカンツォーネシャンソンに挑む場合、いかにその音楽が持つ底流を抑えつつ、借り物感を出さずに、外国人ならではのオリジナリティを産めるかが勝負なんだと思います。日本の民謡においても、その地方の出身者ではない方がその地域の民謡を歌う場合も、いかにその地域感を表現できるかというのが肝要であると思います。

日本の中でもとりわけ個性的な地域が沖縄であり、人々が集まる場所では三線を弾きながら歌う方がいて、その歌に合わせて踊り始めるという光景が知られています。そういう超個性的な琉球民謡を、沖縄以外の人が歌いこなすというのもハードルが高いですが、さらにそんな琉球民謡に魅せられて、琉球民謡のような作品をつくることはもっとハードルが高かったと思いますが、そのハードルを乗り越えた1曲が、THE BOOMの「島唄」という曲でした。

THE BOOMは「島唄」で世に知られたので、彼らを沖縄出身と思う方も多いかもしれませんが、彼らは山梨県出身のロックバンドで、名前の由来は「常に流行に左右されず自分たちの音楽を貫いていけるように」という逆説から付けられたこともあり、さまざまなジャンルの音楽をモチーフにしながら、独自の音楽の世界を作っている印象があります。「島唄」が生まれたきっかけも、三線の音色や琉球民謡の節回しに興味を持ったのだと思います。ボーカルの宮沢和史さんは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れ、そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りである老婆に会って、想像を絶する沖縄の戦時の悲劇の話を聞いて、「島唄」の構想に入ったそうです。だから「島唄」は「表向きは男女の悲恋になっているけど、テーマは反戦の歌」であり、「この作品はこの老婆のために歌いたかった」と、インタビューで宮沢さんが話されていました。

しかし、この「島唄」は、琉球民謡を歌っていた方からは批判的に受け取られ、「沖縄民謡の真似事をするな」とか、「沖縄に住んでから歌え」とか、結構痛烈だったそうです。一方で、彼らを支持する沖縄の音楽仲間もあり、喜納昌吉さんは「音楽において、その魂までコピーすれば、それはもうコピーではない」と激励し、BEGINの比嘉栄昇さんも「BOOMさんの『島唄』は画期的だった。それまでは沖縄のミュージシャンは本土でどう歌えばよいか分からず、本土のミュージシャンも沖縄で歌うのは遠慮があった。その橋渡しをポンとしてくれたのがBOOMさんの『島唄』です。ありがたかった」とエールを送りました。当初は、大ヒットした「オリジナル・ヴァージョン」のリリースをためらっていた宮沢さんでしたが、こういった励ましの声を受けて、「島唄」はいまや沖縄を歌った歌の代表曲の1つになっています。

音楽はそれぞれが個性的であるゆえに、自分に似た音楽が自分の庭に入ってくると、その動きに反発して排除しようとする動きはあるのかもしれません。でも、自分に似た音楽は自分の音楽とは違うのだから、それぞれの存在を認め合うことで、音楽の裾野は広がると思いますし、音楽同士が融合してまた新たな音楽を生み出すきっかけを作るかもしれません。

ぼくは「島唄」は、他の人が歌うのを聴くことはあっても、自分で歌ったことはありませんでした。だから最近、初めて「島唄」を歌ってみました。歌ってみると、聴いていたときとは違う印象の箇所がいくつもありました。そういうことに気づくことで、自分自身の歌のレンジも広がっていけば、成長するのかなと思っています。


The BOOM - 島唄 ( Live )