DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

ESCAPE

DAM★とものユーザーさんたちが公開する曲を聴いているなかで、そういえばこの曲あったなあという曲に出くわしたりします。最近出くわした1曲が、MOON CHILDが1997年5月に発売した「ESCAPE」という曲でした。今聴いても骨太なロックサウンドと、ボーカルの佐々木さんの声がマッチしている名曲だなあと思います。

この作品は、1997年4月~6月に日本テレビで放送されたドラマ「FiVE」の主題歌に起用されました。「FiVE」は、ともさかりえさん、鈴木紗理奈さん、篠原ともえさん、遠藤久美子さん、知念里奈さんが演じる5人のアウトローな少女たちが、犯罪組織と戦っていくというドラマでした。そういうドラマの筋書きを受けて「ESCAPE」が作られたのかはわかりませんが、歌詞の内容は、心の傷つき疲れ果てた男性が、愛する女性の下へ向かって、愛と癒しを求めていく姿を描いています。「もう誰も癒せない 傷跡に降り注ぐ雨 そう君と秘密を分けあうように ずっと孤独を抱いてくれ」とか、かっこいいと思ってしまいます。「裸の太陽 Ah この胸に 熱く 輝きながら」のフレーズあたりで、ボーカルの佐々木収さんがファルセットを入れながら強く歌っていたシーンが思い出されます。

MOON CHILDはいわゆるロックバンドとしてライブ活動をしていましたが、なぜかabex traxにスカウトされ1996年にデビューしました。「ESCAPE」は、楽曲と歌詞が当時の世相に合ったからだと思いますが、徐々に売れ始めて、オリコンで1位を取ってしまったんですね。おそらくこれは本人たちも周囲も予想外だったのではないかと思います。ただ、おそらくこれで、バンドの作詞・作曲・編曲を担っていた佐々木さんも忙殺されてしまったのかもしれませんが、1999年にMOON CHILD解散してしまいます。

その後、2013年に再結成しましたが、メンバーの交流は今でも続いているようで、険悪になって解散したわけではなかったんですね。ドラムでありバンドのリーダーでもあった樫山圭さんはDECAYSというバンドで活動しています。


MOON CHILD ESCAPE

君は薔薇より美しい

昭和のヒット曲のパターンの1つに、化粧品のキャンペーンソングというのがありました。日本の歌謡界を代表するボーカリストである布施明さんも、1979年春のカネボウ化粧品のキャンペーンソングとして発売したのが、「君は薔薇より美しい」でした。

作曲・編曲は当時の人気ロックバンド「ゴダイゴ」のリーダーであるミッキー吉野さんが行ったのは有名な話です。作詞は門谷憲二さんという方で、泉谷しげるさんと音楽活動を共にした後作詞家になった方です。歌手に提供した作品は、木の実ナナさんの「うぬぼれワルツ」、テレサ・テンさんの「ジェルソミーナの歩いた道」、布施明さんの「カルチェラタンの雪」と、大人の渋い楽曲が多いです。

布施さんは元々シンガー・ソング・ライター的な活動を目指していた感じがあって、自身のシングルに自分が作詞や作曲をした作品を入れています。それと、「シクラメンのかほり」以降はフォーク・ソングを志向していたところがあり、「落葉が雪に」や「めぐりあい紡いで」を発表されました。そういう布施さんにとっては久しぶりのポップなサウンドで、しかも明るいイメージの楽曲というのも珍しかったです。やはり化粧品のキャンペーンソングですから、歌の世界でも前向きな女性のイメージを出さなければならなかったんだと思います。「目に見えない翼ひろげて 確かに君は変った 歩くほどに踊るほどに ふざけながらじらしながら 薔薇より美しい ああ 君は変った」と生まれ変わったように美しく輝くようになった女性の姿を打ち出しています。

ぼくもDAM★ともでこの作品を歌うことがありますが、とにかく難しいんです。低音から高音へ跳ね上がる箇所が多いですし、最後の「あああああ 君は~ 変わったあ~」のところは音階をころころ変えたあとで、最後に高音でロングトーンですから、非常に肺活量が必要な歌です。布施さんのボーカリストの実力がなくてはとても歌いこなせません。紅白歌合戦では1979年(昭和54年)に初めてこの作品を披露しましたが、この時はサングラスをかけてギターを弾きながら堂々と歌いきっています。その後、2003年、2007年、2008年の紅白歌合戦ではタキシード姿でおしゃれなアレンジで披露しましたが、その歌声はますますパワフルになっているのには尊敬します。こういう布施さんのステージを見た若い世代の人は、布施明の作品というと「君は薔薇より美しい」を挙げる方が多いと思います。


君は薔薇より美しい / 布施明(1979)

 

東京ららばい

1978年(昭和53年)は今から39年前なんですが、ヒット曲の多い年であり、今聴いても古臭さがなくて、おしゃれな作品が多いです。その1つが、中原理恵さんの「東京ららばい」です。この作品は1978年3月21日に中原さんのデビュー・シングルとして発売され大ヒット、中原さんはこの曲で1978年の紅白歌合戦に初出場しました。

作詞は松本隆さんが作られました。春から夏になって、夜の気温も温かくなってくると、隅田川沿いとか芝浦あたりの湾岸では、東京の深夜を楽しむ恋人たちが集まるという光景は、その後の1990年代の「月9」のようなドラマの展開でよく出てきましたが、その源流というのが「東京ららばい」の歌詞なのかなと思います。「午前三時の東京湾(ベイ)は 港の店のライトで揺れる」おしゃれなバーでのひとときを過ごし、「午前六時の山の手通り シャワーの水で涙を洗う」朝帰りの自宅でのちょっとほろ酔い加減な自分。1970年代当時の歌詞は「東京」を否定的に見ている歌詞になりがちで、「東京ららばい 地下がある ビルがある 星に手が届くけど 東京ららばい ふれあう愛がない だから朝まで ないものねだりの子守唄」と、便利な都会の生活だけれど、何だか幸せが見えなくて、どこか孤独な東京の生活、というのが当時の歌謡曲における東京のイメージだったのかなと思います。ただし、都会のおしゃれな生活の面を書いたのは「東京ららばい」がその走りだったようで、泉麻人さんは「東京ららばい」のことを、「トレンド・シティとしての東京の確立を実感した曲」と評しています。

作曲は筒美京平さんが作られました。当時の筒美さんは、ニューミュージックの台頭を受けて、ニューミュージックのアーティストと一緒に作品を作る動きを見せていました。「東京ららばい」はディスコ・サウンドをベースにしていることから、これもよく書かれますが、1977年にサンタ・エスメラルダ(Santa Esmeralda)がカバーして大ヒットした「Don't let me be missunderstood」(邦題は「悲しき願い」。1960年代に尾藤イサオさんが歌って大ヒットしています。)のパクリではないかという説もあります。似て非なるものではないかな、とぼくは思いますが。日本の歌謡曲にラテンは意外と合うからこそ、節回しも引用してというのは、盗作ではなくて、音楽の調和としてはあり得るのかなと思います。

もっとも、松本先生は青山育ちで、自分が過ごした乃木坂・麻布・六本木・渋谷あたりを「風街」と呼び愛着を持っている東京のお坊ちゃんで、方や筒美先生も神楽坂育ちで、青山学院で育った東京のお坊ちゃんなので、そんな2人が作った「東京ららばい」が東京をよく表しているのもむべなるかなと思います。

中原さんも「東京ららばい」がヒットしたにもかかわらず、新人賞争いでは渡辺真知子さんやさとう宗幸さんという強敵がいたので、最優秀新人賞は取れませんでしたが、39年経った今でも、この3人の作品は色あせず残っているところに、当時の作品のレベルの高さを感じます。


東京ららばい - 中原理恵

 

の生活での恋人たち

迷い道

ニューミュージックと呼ばれる音楽が浸透し始めたのが1970年代ですが、そのピークに達した1978年(昭和53年)に大ヒットしたのが、渡辺真知子さんの「迷い道」でした。

「迷い道」は1977年11月1日に渡辺さんのデビュー・シングルとして発売されました。渡辺さんが作詞・作曲、編曲は船山基紀さんで、船山さんはその後も渡辺さんの一連のヒット作品の編曲を手掛けました。渡辺さんはシンガー・ソング・ライターだったんですが、他のシンガー・ソング・ライターがテレビ出演を拒否するなかでは、珍しくテレビ出演をしていきました。そのせいなのか、歌謡曲の歌手とか、当時あまりにも売れていたのでアイドル歌手のような扱いを受けることもあったようです。とはいえ、渡辺さんの持ち味はパワフルでありながら、繊細さも感じられるボーカル力にあります。

2枚目のシングル「かもめが翔んだ日」が非常にドラマチックな作品だったせいもあり、「迷い道」はやや地味な印象を受けてしまいますが、歌詞の内容は別れてしまった彼との再会を待ちわびる女性の揺れ動く心を絶妙に描いています。「まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって」という歌詞が1番と3番にあり、強気でいた自分への懺悔がこめられていて、「ひとつ曲り角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね」という歌詞で、ボタンの掛け違いからすれ違ってしまった今を後悔しています。そういう歌詞なんですが、渡辺さんのボーカルは湿っぽさを消し去って、生きていく強さを感じさせてくれます。

1978年はピンク・レディーのブームが頂点に達した年であったと同時に、ニューミュージックも多くのアーティストが活躍しピークを迎えた年でした。1978年の紅白歌合戦でNHKは「ニューミュージック・コーナー」という異例の枠を設けて、紅組は庄野真代さん、サーカス、渡辺真知子さん、白組はツイスト、さとう宗幸さん、原田真二さんの初出場6組が一気に歌唱しました。

当時はいわゆるニューミュージックの大物歌手が紅白歌合戦に出場することはなく、2002年の紅白歌合戦中島みゆきさんが「地上の星」で黒部ダムからの中継で初出場するまで待つことになります。


迷い道

SCANDALOUS BLUE

シンセサイザーを使ったJ-POPの楽曲は、1980年代後半に登場したTM NETWORKから徐々に浸透し始めてきました。TM NETWORKに続いて1990年代に活躍したのが、キーボードの浅倉大介さんとボーカルの貴水博之さんによるユニットのaccessでした。

浅倉さんはデビュー前、ヤマハシンセサイザー・ミュージックコンピュータ部門で働きながら、TM NETWORKのサポートメンバーとして参加していました。1992年7月、ソロアルバムの浅倉さんのライブに、ゲストボーカルとして貴水さんとジョイントしたのがきっかけで、accessが結成されました。ボーカルの貴水さんはハイトーンボイスに加えてイケメンなビジュアル、そして当時の浅倉さんも美少年を漂わせる雰囲気でした。だからなのか、accessの売り出し方が、今でいうBL(ボーイズラブ)を前面に押し出すようなパフォーマンスで、徐々に人気を高めていきました。

1994年10月19日に発売された「SCANDALOUS BLUE」は、accessの三部作の1つで、ステージで貴水さんと浅倉さんがキスのパフォーマンスをするという、当時としてはぶっとんだ内容でした。ただaccessは取材でも、「別に同性愛をテーマにしたわけではなく、純粋な感情をテーマにしている」と話しています。1994年の紅白歌合戦にトップバッターとして出場し、「SCANDALOUS BLUE」を披露しましたが、貴水さんのボーカルはしっかりとNHKホールの客席に届いていたし、浅倉さんのキーボードの演奏も手堅く決まっていましたので、サウンドとしてもパフォーマンスとしてもよくできていたと思います。当時時代を先取りしすぎてしまったからなのか、翌年の1995年に活動停止してしまったのが惜しく感じられます。

この作品の作詞は朝霧遥さん、つまり井上秋緒さん、作曲・編曲は浅倉さんですが、このコンビは後に、T.M.Revolutionさんのヒット作品を次々と輩出していくことになります。


Access - Scandalous Blue (Kouhaku '95)

帰らざる日のために

DAM★ともを始めてから色々なジャンルの歌を探すようになりました。自分の中でおぼろげに一節を覚えていた歌も、インターネットで検索して、ようやくその作品がわかったものもあります。いずみたくシンガーズの「帰らざる日のために」もそんな1曲でした。

この作品は1974年に放送された「われら青春!」の主題歌として、作詞は山川啓介さん、作曲はいずみたくさんによって作られました。いずみたくさんは当時の日本テレビで放送されていた「青春学園ドラマ」の音楽に関わっていて、1972年に放送された「飛び出せ青春」の主題歌となった、青い三角定規の「太陽がくれた季節」も作詞が山川さん、作曲がいずみさんによるものです。当時のドラマは主題歌とは別に挿入歌も作っていて、「われら青春!」では主演の中村雅俊さんが歌った「ふれあい」(この作品も作詞は山川さん、作曲はいずみさんです。)はオリコンで10週連続1位となるミリオンセラーとなりました。

「太陽がくれた季節」と「ふれあい」に挟まれて、やや印象の薄い「帰らざる日のために」ですが、当時60万枚の大ヒットとなりました。この作品を歌ったのはいずみたくシンガーズというグループなんですが、いずみさんは1972年頃からミュージカルの制作とあわせて、ミュージカル俳優の養成を始めていて、青い三角定規に続くグループの結成を目論んでいたようで、男女混合のグループを結成したようです。この作品を聴いた印象としては歌っているメンバーの発声がとても聴きやすいことと、男女混合のコーラスが、いわゆる合唱のコーラスではなく、ミュージカルの萌芽のような感じがしました。コーラスとしては当然ハーモニーができていて、加えて各人の声が混ざりあうことによる化学反応も醸し出しています。青春がテーマの作品なので、群像劇のようなステージを標榜していたのかなとも思いました。

歌詞もいい内容だと思います。「愛する人がいるなら 求めるものがあるなら なんにも怖くはないさ そいつが青春 涙は心の汗だ たっぷり流してみようよ 二度と戻らない 今日のために」と今を生きていこうというメッセージが強く込められています。

いい作品は今もしっかりと受け継がれていて、いずみさんが立ち上げたミュージカル劇団は現在、ミュージカルカンパニーイッツフォーリーズとして続いています。彼らがこの作品をカバーしているのを聴くと、いずみさんの精神のDNAは生き続けていたんだなというのを感じました。

作詞家の阿久悠さんが1970年代について「青春という言葉がまだあった」と評されていました。確かに、夕日に向かって走る青春学園ドラマのような、心と心が激しくぶつかり合う場面は少なくなったのかもしれませんが、そんな表層とは別に、日本人の心の底流は意外に変わってないような気もします。


●帰らざる日のために~いずみたくシンガーズ


いずみたく作曲「帰らざる日のために」イッツフォーリーズ

そよかぜスニーカー

 

NHKの子供番組「おかあさんといっしょ」で、4月から12代目うたのお兄さんになったのが花田ゆういちろう(花田雄一郎)さんです。「ゆういちろうお兄さん」のスタートに合わせて、4月の月歌として放送されたのが「そよかぜスニーカー」という作品です。

作詞は井出隆夫さん、つまり作詞家の山川啓介さんです。「井出隆夫名義」で子供向けの作品を多く提供されています。作曲は林アキラさんで、林さんはかつてうたのお兄さんとして活躍され、現在はミュージカルの俳優の他に、作曲家として楽曲を提供されています。

歌詞の始まりが「そよかぜ スニーカー すあしに はいたら きみを さそいに かけてくよ あおぞらをつれて」と、石田純一さんの歌?と思えるほどの凄いツカミから入ってきましたが、そんな邪推を吹き飛ばしてくれるような、爽やかな前向きになれる作品でした。林さんがご自身のブログで書かれていたように、「さわやかなお日さまに誘われて、思わず外に飛び出したくなるような曲」だとぼくも思いました。

歌の映像は、うたのお兄さんとお姉さん、体操のお兄さんとお姉さんが4人で、どこかのアリーナのような場所でロケをしているので、何だかカラオケのPVみたいなんですが、それにしても新入りのゆういちろうお兄さん、27才とは思えぬほど、余りにも爽やか過ぎてまぶしすぎるほどの雰囲気を出しています。お母さんさんたちのブログでは「妖精みたい…」というのもありました。もはやジャニーズのアイドルにはもう出せない爽やかオーラを出せるゆういちろうお兄さん、この人はただものではないなと感じました。

調べてみたら、国立音楽大学の声楽科を卒業後、文学座附属演劇研究所に入り(ここに合格するのも結構難しいそうです。)、ミュージカルや舞台に出演されてきました。おそらく今回のうたのお兄さんの話が決まったこともあるのか、文学座附属演劇研究所を今年の1月に卒業されました。

ゆういちろうお兄さんの歌声を聴くと、癖がなくて、はきはきと歌っているので、はっきりと歌詞が聞き取れます。それと低音に安定感があるので、すごく聴きやすいと思いました。

DAM★ともでもし歌えるようになったら、公開してみたい作品です。