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DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

ス・ト・リ・ッ・パ・ー

現在のJ-POPや日本のロックシーンの基盤を作ったパイオニアのもう1人は、沢田研二さんであると思います。ジュリーの愛称で、ザ・タイガースグループサウンズ・ブームの中心にいて、熱狂的なファンを集めた時から「王子様キャラ」でずっときたわけです。ただし、沢田さんはアイドル歌手であったことはなく、ソロ歌手になってからも、ポップスの歌手として活動を続けてきたわけです。

勝手にしやがれ」の前後あたりから、男性のヴィジュアルに着目した衣装やパフォーマンスを採り入れるようになり、派手なイメージで、今までの歌手がやらなかったステージに挑戦してきました。これは、デヴィッド・ボウイDavid Bowie)やキッス(KISS)といったアーティストの影響を受けている感じもします。沢田さんのヴィジュアルなステージは、その後の日本のロック・バンドのパフォーマンスに影響を与えており、いわゆるヴィジュアル系バンドはほぼその影響を受けていると思います。

沢田さんの過激なステージがエスカレートしていったため、長年共にした井上尭之バンドは「ついていけない」として1980年に解散します。その後新たに沢田さんのバックバンドとなったのがEXOTICS(エキゾティクス)というバンドで、バンドリーダーが吉田建さんでした。この頃から沢田さんはシングルの作品でも自ら作曲したものを発表していきます。「渚のラブレター」を皮切りに、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」と続けて発表しましたが、楽曲もロック・テイストが強いものになっていきました。

沢田さんの音楽的な持論を目にしたことはありませんが、その行動を追ってみると、前例にとらわれず、新しいものに挑戦する試みに常に取り組まれていたように思います。当時若手のアーティストだった大沢誉志幸さんの楽曲提供を受けた「晴れのちBLUE BOY」のような斬新な作品にも意欲的に発表していったと思います。このあたりのロック・テイストがその後のバンド・ブームに広がって、その後のJ-POPのアーティストを多数生み出す根源になっていると思います。

1986年の紅白歌合戦で沢田さんは「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」を歌唱し、華麗なステージを披露しました。当時はまだまだ演歌が幅を利かせていた時代でしたが、沢田さんが1978年の紅白歌合戦でポップス歌手として初の大トリを取ってから、徐々にポップスも力をつけていった時代でもありました。ジュリーはやっぱりかっこいいです。沢田さんの新しいものに挑戦する精神を、今のアーティストも少しは持てばいいのにと思います。アイドルもポップスもロックも、いったんスターダムに乗ったら、予定調和で進んでいこうという感じで、超保守的で、今の安定した地位を守ろうという姿勢がありありな感じです。そういうのはサラリーマンや公務員がやってればいいことであって、夢を売る商売の人達は、もう少し無鉄砲で破天荒であってもいいように思います。


沢田研二 ストリッパー