DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

雑草の泪

DAM★ともで歌える曲は膨大な数に上ります。カラオケの部屋に行くと部厚い収録曲リストの冊子が今も置いてあるお店もありますが、今は電子端末で曲を選ぶようになりました。ヒット曲の後ろには、膨大な数のさほど売れなかった曲もありますが、売れなくてもある人にとっては強い印象が残っている曲もあると思います。ぼくの場合、その1曲が、田川寿美さんの「雑草の泪(なみだ)」という曲です。

この作品は2003年9月25日に田川さんの18枚目のシングルとして発売されました。作詞は五木寛之さん、作曲は幸耕平さんで、このコンビは田川さんの前作のシングル「女人高野」に続く楽曲の提供でした。

昭和の頃の歌謡曲は「演歌」というジャンルで括っても、その中に様々な個性的な歌手がいましたが、平成に入ってからの「演歌」は歌手のバリエーションが画一的な方向になっていると感じます。女性演歌歌手はなぜほとんどの歌手が髪を結って、崩した着物の着こなしで歌わなければならなくて、歌の世界も古臭いテーマが多いのかと思います。歌手のキャラクターも似たような歌手ばかりで、これでは歌を聴こうという気持ちにはなりません。

そんな演歌を聴かないぼくでも、2002年の「女人高野」で、田川さんが着物とドレスを混ぜたような奇抜な衣装で、エレキギターを弾きながら歌ったのは、演歌のワンパターンを切り崩す画期的な試みであったと思います。続く2003年の「雑草の泪」は、ドレスを着た田川さんが、寂しさや悲しさを乗り越えるのが人生という歌のテーマを、雑草をモチーフにしながら、通常の演歌とは違う作品を作り上げています。

「道に咲いてる 名もない花にも きっと名前も 大事な夢もある
 こんな切ない 世の中だけど 私は泣きません」
「雨に濡れてる 小さな草にも 口に出せない こころの傷がある
 ひとりぼっちは 淋しいけれど 私は泣きません」

ぼくは五木寛之さんの小説を読んだことはありませんが、好きな歌の歌詞が五木さんの歌詞だったということがいくつかありまして、「雑草の泪」のこういう歌詞の視点がいいなあと思います。昭和天皇が植物の研究をされている中で「雑草という草はないんだよ」と侍従にお話されたエピソードを思い出しましたが、人でも草花でも、そこにいることの意味や価値というのを、それぞれが尊重して共生していくのが、世の中の一番のルールだなと思います。DAM★ともも、それぞれのユーザーさんが公開した曲には、そのユーザーさんなりの思いがあるということを認識しながら、気分転換も兼ねてゆったりと聴いています。


田川寿美 雑草の泪

さよならの向う側

ヒット曲を歌った歌手は数多くいますが、その時代に影響を与えた歌手となると限られてきますが、山口百恵さんはその1人だと思います。1973年5月21日に「としごろ」でデビューし、1980年10月15日に引退するまでの約7年間、歌手としても女優としても人気を博しましたが、三浦友和さんとの結婚を発表してから引退までの約1年間は「百恵ブーム」が最高潮に達しました。トップで活躍している歌手が、結婚して芸能界を引退するというのは、それまでの芸能界の感覚では信じられないことでしたし、百恵さんの潔い決断を一般大衆もあたたかく受け入れたことも大きかったと思います。その百恵さんが引退前に発売した最後のシングルが「さよならの向う側」という曲でした。

この作品は1980年8月21日に、山口百恵さんの31枚目のシングルとして発売されました。作詞は阿木燿子さん、作曲は宇崎竜童さん、編曲は萩田光雄さんで、百恵さんの後半期のシングルを何曲も提供してきたチームです。文字通り、百恵さんの引退のはなむけのために提供された作品で、宇崎さんもこの作品については「直球、ストレートに作った」とコメントされています。歌詞も、数多くの「あなた」への感謝が綴られています。何億光年輝く星にも寿命があると教えてくれたあなた、季節ごとに咲く一輪の花に無限の命があると教えてくれたあなた、眠れないほどに思い惑う日々を熱い言葉で支えてくれたあなた、時として一人くじけそうになる心に夢を与えてくれたあなた。百恵さんを支えてくれたファンやスタッフへの感謝も込められています。そして、そんな「あなた」のことは忘れないと言っています。あなたの燃える手、あなたの口づけ、あなたのぬくもり、あなたの呼びかけ、あなたの喝采、あなたのやさしさ、そしてあなたのすべてを。そして私のうしろ姿は見ないでください、あなたのうしろ姿も見ないでゆきます、約束なしのお別れです、今度はいつと言えませんと、これは芸能界からの決別という百恵さんの強い意思を汲んだ阿木さんが書いたのだと思います。百恵さんの引退後、都はるみさん、森昌子さんも引退しましたが、結局復帰しました。高田みづえさんも1日だけ復帰しました。でも百恵さんは決して復帰はしませんでした。それが偉いと思います。

「さよならの向う側」は、百恵さんの引退向けではありましたが、楽曲としてはきちっとしたバラード曲になっている良い作品だと思います。だから、この作品は日本の歌手だけでなく、レスリー・チャンをはじめアジアの歌手も数多くカバーしています。ただ、百恵さんの引退曲というイメージが強すぎるため、聴く者としてはカバーされた歌をしっかりと昇華できない感じがしました。それとこの作品は、ぼくも歌ってみましたが、音程を安定して歌い続けるのが意外に難しい曲だと思いました。山口百恵さんの歌唱力の強みは安定感のある歌い方にあったと思いますが、その強みをこの作品でも生かしていているように思います。

最近、Youtubeで、百恵さんの長男である歌手の三浦祐太朗さんが「さよならの向う側」を歌っているのを見たんですが、他の歌手のカバーを凌駕する歌だったので、とてもいい歌だと思いました。その歌番組に共演していた宇崎さんが「DNAを感じる」とコメントされたのが秀逸で、歌唱力だけでは習得できない遺伝子の力が加わっているようでした。森山直太朗さんの歌を聴いたとき、その後ろに森山良子さんを感じたのと同じ感じでしょうか。それまで祐太朗さんの歌を聴いたことはあったんですが、あまり感情が表に出ない声なので、いい声質なんですけど、もっと表現をつけてもいいのにと思ったことがありました。今回、祐太朗さんは母の歌をカバーすることには葛藤があったそうです。でも、それが良かったと思います。歌に祐佑太朗さんの気持ちが乗っかるように聞こえ、歌が上手くなったように感じました。宇崎さんもそれを感じていたように思います。


さよならの向う側 三浦祐太朗

チャイナタウン

7月24日、作詞家の山川啓介さん(本名 井出隆夫さん)が亡くなられました。ぼくはDAM★ともでも山川さんの作品を歌って公開してきました。「山川啓介」としての作品では、野口五郎さんの「グッド・ラック」、いずみたくシンガーズの「帰らざる日のために」、岩崎宏美さんの「小さな旅」、「井出隆夫」としての作品では、花田ゆういちろうさんの「そよかぜスニーカー」などです。山川さんは職業作詞家を自任されていましたが、作られる歌詞は流行歌のためだけの歌詞だけではなく、一つの詩として言葉を綴っていかれたように感じます。だから、言葉が綺麗で、凛としているというのがぼくの印象でした。

山川さんの訃報に接し、矢沢永吉さんが「盟友が亡くなったんだなあとしみじみ感じました」とコメントを出されました。矢沢さんがこういったコメントを出すのは異例だと思いますが、改めて山川さんのインタビュー記事を読んでいたら、矢沢さんについて語っているところがありました。山川さんはいずみたくさんとの出会いで青春ドラマの主題歌を担当することになり、青い三角定規の「太陽がくれた季節」や中村雅俊さんの「ふれあい」が大ヒットし、職業作詞家の仲間入りをすることができました。しかし、それで「青春歌謡作家」のイメージがついてしまい、苦労していた。そこから抜け出せたきっかけとして、まず「藤田敏雄先生と一緒に訳詞の仕事を手掛けたこと」を挙げています。藤田敏雄さんは、日本の創作ミュージカルの草分け的存在の方で、現在も続く音楽番組「題名のない音楽会」の企画構成をされました。そして、山川さんがジャズドラマーの猪俣毅さんに依頼されて、洋楽曲の訳詞を書いたところ、バックバンドのギタリストだった水谷公生さんが矢沢さんに「こういう詞を書くのがいるよ」と話したら、矢沢さんが会ってみたいということで、山川さんとの出会いが始まったわけです。

矢沢さんはキャロル解散後、ソロシンガーとして活動していましたが、キャロルのイメージを捨て、新たな挑戦を試みていた時期でもありました。当時はニューミュージック全盛期で、シンガーソングライターのスタイルが主流でしたが、矢沢さんは「俺より詞のうまい奴はいくらでもいる。無名でもいいから、詞は俺の思いを伝えてくれる奴に頼みたい」という考えを持っていました。山川さんは、矢沢さんから送られてきたデモテープを聴いて、矢沢さんは英語で仮歌を歌っているんですが、矢沢さんのノリや特徴から「こうしたいんだな」という思いを掴んで、詞を書いたそうです。山川さんは矢沢さんに詞を提供するなかで、これまでの青春ものとは違う、自分らしい詞が書けたことは大きかったと述懐されています。

こうして、1978年3月21日に発売された「時間よとまれ」はミリオンセラーの大ヒットとなり、矢沢さんはソロシンガーとしてもメジャーアーティストに「成りあがり」を果たしました。そして、この「時間よとまれ」のB面に収録されたのが「チャイナタウン」でした。今では多くの人に知られる名曲ですが、山川さんも矢沢さんも、歌謡曲でもニューミュージックでもないところで、大人の男性の生きざまをテーマにして作品を作ろうという2人のシンパシーが化学反応を生んだのかなと思います。山川さんはこれを機に、訳詞はもちろん、歌謡曲もアニメも手掛け、子供番組の歌づくりにも積極的に取り組まれ、ジャンルにとらわれない音楽活動を続けられました。矢沢さんも、山川さんは一緒に自分を押し上げてくれた「盟友」だと思っていたんですね。人生の盟友に出会えたことは、すごく幸せなことではないかと思います。


矢沢永吉・プロモ・チャイナタウン

言えないよ

DAM★ともが始まったのが2008年12月で、ぼくはその時から続けているので今9年目になります。ユーザーさん同士で歌を聴き合うだけの交流なんですけど、何となく歌っているユーザーさんの思いもわかってしまう感じがします。別にぼくに予知能力があるわけではなくて、歌は何かを訴えたい欲求から声を出すものなので、ユーザーさんの選曲にも、ユーザーさんの気持ちが背景にあると思うのです。

ぼくがkinki kidsの作品を歌って公開していた頃、同じようにkinki kidsの作品を公開していたユーザーさんと、いつのまにかお互いに聴き合うようになりました。ぼくよりも歌の上手いユーザーさんで、繊細な声質もいいなあと思いました。時にはぼくから押しかけコラボをやったりしましたが、嫌がらずにぼくの歌も聴き続けてくれました。そんな彼が、体調が悪かったようで、この数年は公開曲もなくて、交流も途絶えていました。ところが最近、彼が久しぶりに新曲を公開してくれました。相変わらず高音は出てますけど、時折息苦しそうな感じもしました。ぼくより若い方ですけど、無理しないで、気楽に歌を続けて欲しいと思います。

その彼が公開した1曲が、郷ひろみさんの「言えないよ」です。この作品は1994年5月1日に郷さんの66枚目のシングルとして発売されました。作詞は康珍化さん、作曲は都志見隆さんです。この当時の郷さんはバラード曲に力を入れていて、1993年に「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」(ビーイング全盛期を思わせる長い曲名です。)、1994年に「言えないよ」、1995年に「逢いたくてしかたない」を発表しました。後に郷ひろみの「バラード3部作」と言われた作品です。「言えないよ」はカラオケでも浸透している曲です。当時のオリコンでは最高27位でしたが、オリコンチャート内には39週も登場し、演歌のロングセラーのようにじわじわと売れて、ヒット曲になりました。1994年の日本有線大賞・有線音楽優秀賞を受賞し、同年の紅白歌合戦でも歌唱されました。郷さんは長年のボイストレーニングの効果で、伸びやかな声量の持ち主になりました。ただご本人も言われていましたが、「いろいろな声は出せるけれど、僕は「郷ひろみ」なので、僕らしく歌いたい」と話されていたのが印象に残りました。大衆が求める「郷ひろみ」のイメージを続けていくというのが郷さんの哲学なんですね。現在も若々しい体型を維持されているのもその1つなんだなと思いました。


郷ひろみ 言えないよ

東京五輪音頭/あはがり

2020年の東京五輪パラリンピックに向けて、1964年の東京オリンピック開催時に三波春夫さんが歌って大ヒットした「東京五輪音頭」を現代風にアレンジした「東京五輪音頭-2020-」のお披露目が昨日ありました。お披露目の様子の動画を拝見しましたが、原曲の良さが全く継承されておらず、とても良い作品とは思えませんでした。

東京五輪音頭」は1963年6月23日に東京オリンピックのテーマソングとして発売されました。レコード会社8社による、多くの歌手による競作となりましたが、三波春夫さんの作品がミリオンセラーの大ヒットとなりました。紅白歌合戦では番組の最後に全員で「蛍の光」を合唱するのが恒例ですが、1963年の紅白歌合戦だけは最後に「東京五輪音頭」が合唱されました。そして翌年1964年の紅白歌合戦では、三波さんは「元禄名槍譜 俵星玄蕃」を歌唱し大トリを務めたため、「東京五輪音頭」は歌われませんでした。その後1989年(平成元年)の紅白歌合戦で、三波さんは「東京五輪音頭」を歌いました。


「東京五輪音頭&東京五輪おどり」 三波春夫

この作品を朗々と披露できるのは「歌謡浪曲」という一子相伝のジャンルを作り上げた三波先生の歌唱力があってこそのものであり、他の歌手がこの作品に挑んでも、その歌手の粗が見えてしまうだけではないかと思います。競作の中で三波さんは「東京五輪音頭」を歌って廻ったそうですが、ご自身の回顧として「戦後の日本がここまで来れた喜びを日本中に歌いたかった」と強い思いがあったことを振り返っておられます。その意味で1964年の東京オリンピックと「東京五輪音頭」は戦後の復興と高度経済成長の象徴であると思います。

翻って、2020年の東京五輪は、戦後復興でも高度経済成長でもありません。日本は成熟国家に入っており、少子高齢化をはじめ、様々な社会問題が出ている現状です。加えて2011年の東日本大震災福島原発事故により、日本国土が大きく毀損してしまい、その復興に向けた努力が今なお続いています。東京五輪でのエンターテイメントは様々なジャンルのステージが披露されると思いますが、賑やかしく派手なステージが披露されるように、静かに平和を祈るステージが披露されてもいいのではないかと思います。

そこで思い起こしたのが、朝崎郁恵さんの「あはがり」という作品です。NHKBSプレミアムで放送中の「新日本風土記」のテーマ曲になった作品です。朝崎さんは奄美シマ唄の第一人者と言われる歌手で、「あはがり」の歌詞もシマの言葉で歌われるので、意味はわかりません。でも歌の旋律を聴いていると、そもそも人間の歌の原点は、自然や生命への祈りであったんだなあということが感じられました。そして、日本語がわからない世界の国々の方も、朝崎さんの歌を聴いて、心を揺り動かされるのではないかと思いました。


朝崎郁恵  あはがり 2011

アメリカ橋

作曲家で歌手の平尾昌晃さんが7月21日に亡くなられました。ここ1、2年のテレビ番組でのお姿を拝見すると、体調が悪いのかなとは思っていましたが、突然の訃報に接し驚きました。ぼくにとっては平尾先生は、clubDAM歌唱検定の審査員として審査をしていただいたことが思い出です。水谷豊さんの「カリフォルニア・コネクション」を原曲キーで歌ったんですが、平尾先生の審査コメントで「キーを1つ上げて、歌ったらいいと思いますよ!」と返ってきたので、もう1回キーを1つ上げて歌ったものを出しました。それに対する平尾先生のコメントが「良くなりましたねえ!」でした。素人の人にも優しく接してくださるお人柄が何となく感じられました。

平尾先生のヒット作品の中で、1998年にヒットしたのが山川豊さんの「アメリカ橋」という作品です。作詞は山口洋子さんで、山口さんと平尾さんのコンビは、「よこはま・たそがれ」で五木ひろしさんを演歌の大スター歌手に押し上げたコンビでもあります。

「アメリカ橋」はJR山手線の目黒駅と恵比寿駅の間に実在する橋で、恵比寿ガーデンプレイスの近くにあり、山手線の線路の上を通っている跨線橋です。正式には「恵比寿南橋」というんですが、1904年にアメリカでのセントルイス万国博覧会に展示されていたものを、当時の明治政府の鉄道作業局が買い取って、1906年に鉄製の橋のモデル橋として、現在の場所に架設されたことが、「アメリカ橋」の由来でもあります。

 

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山口さんの歌詞では、アメリカ橋の風景と、かつての恋人同士の再会と別れを描いています。「アメリカ橋のたもと ふと通うぬくもり やるせない恋 埋めた街 角部屋の灯り」と、恵比寿あたりの情景が目に浮かんできます。平尾さんはこの歌詞に3拍子のリズムをつけたメロディーを作られました。1番の「いつか いつか 熱かった青春」、2番の「遠い 遠い かえらない青春」、最後の「はるか はるか あの頃が青春」あたりは、この3拍子をうまく歌の表現に使っていて、青春の思い出を振り返る様がよく出ているように感じました。

山川豊さんが「アメリカ橋」を歌われているのを初めて聴いたとき、「これはヒットするだろう」と思いました。山川さんは1998年と1999年の紅白歌合戦で「アメリカ橋」を歌唱しましたが、1998年の紅白では山川さんと平尾さんがデュエットで歌唱しました。そして「アメリカ橋」は1998年の第31回日本作詩大賞を受賞しました。

平尾さんは男性の歌手に提供する曲は「ぼくが歌ったらどうなるかなと思って作っていた」そうです。山川さんの歌もいいですけど、もし平尾さんがオリジナルで「アメリカ橋」を発売していたら、もっと大ヒットしていただろうなと思います。

在りし日の歌いたがりな平尾先生をしのび、ご冥福をお祈り申し上げます。


山川豊 アメリカ橋 作曲家 / 平尾昌晃とのコラボ

そんなんじゃない

DAM★ともでは、歌のオーディション企画が紹介されていて、公開した曲で応募することができるものもあります。いま紹介されているオーディションの1つに「Sony Music 課題曲オーディション」があり、課題曲となっているのが青柳翔さんの「そんなんじゃない」という曲でした。

青柳さんのこともお名前以外は知らなかったので、YoutubeでMVを見たんですが、青柳さんの歌声を聴いて、やや低めの声でストレートに思いが伝わる歌い方で、好感を持ちました。LDHEXILE三代目J Soul Brothersなどが所属の事務所)に所属している俳優さんなんですが、ある意味EXILEや三代目のカラーに染まらないタイプの歌だなあと思いました。

青柳さんは2006年に「EXILE VOCAL BATTLE AUDITION」を受けて2次審査で落選したものの、LDHのスタッフに「俳優にならないか」と声をかけられ、劇団EXILEのメンバーとして俳優活動を続けていましたが、2016年6月にソロ歌手としてもデビューしました。歌手への道が10年越しで開かれたのも凄いですが、大事なのはタレントの可能性を見抜くスタッフの眼力なのかなと思います。オーディションでは途中で落ちたけど、何か気になって、このままさよならしたくはなくて、声をかけたっていうところなんですね。

青柳さんが課題曲の応援メッセージ動画をアップされていて「声が低い男性でも歌いやすい曲だと思います」と言われていたので、ぼくも先日、DAM★ともで歌ってみました。歌詞は小竹正人さんが書かれていますが、どこかもどかしい恋の普遍的なところを描いていて、彼女を泣かせてしまったり、彼女と会いたいのに会えなかったり。ただ、「そんなんじゃない」って思いは恋だけではなくて、生活のさまざまな局面でありますし、歌詞の一節で、「また夜が 空から逃げて 朝が来た…一日の始まり 同じ繰り返しの日常の中 失くしたヒカリ捜せば オレとアナタは繋がるの?」というところがあって、ここは前後とどう繋げて歌ったらいいかなと考えました。

ぼくも忙しい時間を過ごしてましたが、久しぶりにカラオケに行ける時間が作れたので、「そんなんじゃない」ともう1曲を録音して、DAM★ともに公開しました。青柳さんが課題曲の応援メッセージ動画で「あまり気負いせず、リラックスして歌ってくれたら嬉しいです」ともう一言言われてましたが、とてもそんな余裕はなかったです。まだ10回も歌っていませんので、気負わずリラックスして歌えるためには、まずは何回も歌って練習していかないといけませんね。

青柳さんの動画はアップできませんので、「そんなんじゃない」をフルで歌っている方の動画で、作品の雰囲気を感じていただければと思います。(ぼくではありません。)


【フル歌詞付き】そんなんじゃない/青柳翔 cover