DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

哀歌(エレジー)

DAM★ともで色々なアーティストさんの曲を歌っていますが、意外と歌っていないのが平井堅さんの作品です。ぼくが平井さんの作品でDAM★ともで公開したことがあるのは「哀歌(エレジー)という作品です。

この作品は2007年1月17日に平井さんの25枚目のシングルとして発売されました。作詞と作曲は平井さん、編曲は亀田誠治さんです。渡辺淳一さんの長編小説「愛の流刑地」を映画化して、豊川悦司さんと寺島しのぶさんの主演で公開することになり、その主題歌を依頼されて、平井さんは原作と映画の脚本を元に「哀歌(エレジー)」を作っていったそうです。

愛の流刑地」は、かつて売れていた小説家が、紹介されて出会った人妻と次第に激しい恋に落ちていく話で、人妻が情事のときに「私の首を絞めて殺して」とよく言っていたのを、本当に殺してしまうんですね。逮捕された小説家は裁判所で罪状を語っていくという、いかにも渡辺先生の得意分野のような筋書きとなっています。

歌詞の世界もこの人妻・冬香の目線なんですね。「ひらひら 舞い散る 花びらがひとつ ゆらゆら 彷徨(さまよ)い 逝き場をなくした」という表現は、一線を越えて、後戻りできなくなった男女をうまく表していると思います。「汗ばむ淋しさを 重ね合わせ 眩しくて見えない 闇に落ちてく いつか滅び逝くこのカラダならば 蝕(むしま)ばれたい あなたの愛で」という表現も、明るい愛ではなくて、いつかは滅びゆくはかなさを感じてしまう哀しい愛を暗示しています。女性の情念はすごく深いんですけど、石川さゆりさんの「天城越え」の女性は愛を貫いていこうとする強い女性であるのとは対照的なものを感じます。

平井さんはこの作品が初めて女性目線で書いたものらしいです。でも作成の過程で結構ストレスが溜まったのか、「哀歌(エレジー)」のリリースの1か月後に、次のシングル「君の好きなとこ」を発表します。こちらは前作の余韻もないほどポップな作品です。

DAM★ともで歌っているとき、平井さんご本人がPVに出られていた記憶があります。その動画は探せなかったんですが、「哀歌(エレジー)」の雰囲気を出されている方の歌をご紹介します。(ぼくではありません。)


歌ってみた 哀歌(エレジー) ~Cover~

女優

日本の女性ポップス歌手の中でデビューの頃から歌唱力に定評があったのが岩崎宏美さんです。岩崎さんは「ロマンス」、「思秋期」、「すみれ色の涙」、「聖母たちのララバイ」などの大ヒット曲を多く持っていますが、ランキング的には10位~20位の中ヒットの作品でも、印象に残る曲を多く持っています。その1曲が、1980年4月5日に発売された「女優」という作品でした。作詞はなかにし礼さん、作曲・編曲は筒美京平さんです。歌詞の内容は、たぶん駆け出しの女優が、相手役の俳優に好意を寄せながら、そんなに得意ではないキス・シーンやラブ・シーンを前に、相手に嫌われないように真剣に演じようとする思いを描いています。そしてこれは女優と俳優に限らず、女性が、付き合っている男性に嫌われないように、男性を懸命に愛そうとする姿も重ねています。

思えば役者さんたちも仕事とはいえ、好きでもない俳優や女優とキス・シーンやラブ・シーンを演じなければならないのは、大変ですよね。歌詞のように心が繊細な女優さんはおそらくいなくて、半ば男勝りだったりしないと、芸能界では生きていけないんだろうと思います。

さて「女優」のイントロは、「アクトレス ルルル…」というバックコーラスから始まります。こういうちょっと面白いバックコーラスは、昭和の歌謡曲には結構あったと思います。当時の岩崎さんの声は透明感があって、まっすぐ貫くような強さがありました。「明るすぎるわモンシェリ 少しライトを弱めて 時々外を通る車の光が素敵」で思い出しましたが、富士重工業(スバル)の「レオーネ」という車のCMソングに起用されていました。アクトレス(Actress。女優)は英語なんですけど、モンシェリ(mon chéri 。私のいとしい人)はフランス語なんですね。楽曲は岩崎さんの声量の伸伸びをうまく生かした、オーソドックスな作り方をしていると思います。

DAM★ともをやっていて、喉の調子が悪いときとか高音が出にくいときは、女性のアーティストの曲を歌っていますが、音程のフラットを修正したいときの練習に、岩崎さんの作品を歌うと、岩崎さんの歌い方を思い出しながら、音階を正しく、歌詞をはっきりと言うように、気を付けられる感じがします。それにしても、昭和の歌謡曲は色々な引き出しがあって面白いです。


岩崎宏美 女優 (紙吹雪)

原宿キッス

現在のジャニーズ事務所の隆盛のパイオニアとなって活躍した田原俊彦さん。トシちゃんのヒット曲はたくさんありますけど、その1曲として今回は、1982年(昭和57年)5月8日に発売された「原宿キッス」を紹介します。作詞は「ハッとして!Good」を提供した宮下智さん、作曲は筒美京平さん、編曲は船山基紀さんです。

この当時、田原さんはシングルでなかなか1位が取れず、当時の音楽番組は「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」というランキング番組が超人気な状態でしたし、ライバルの近藤真彦さんは発売するシングルが毎回1位を取っていたので、田原さんもポニーキャニオンの人たちもやや歯がゆい思いだったかもしれません。まあ、良い言い方をすれば、当時のオリコンは芸能事務所やレコード会社の圧力に屈せず、公平なランキングをしていたのだと思います。田原さんのプロデュースはデビューからずっと、ジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川さんが手掛けていました。田原さんの楽曲は。田原さんが踊りながら歌うスタイルでしたから、サウンドも軽快なものを選んでいたと思いますが、歌詞も宮下智さんの作品をはじめ、今までの歌謡曲には出てこなかったような、軽い言葉を使っているように思います。当時の田原さんの声質を生かしているようにも思います。「AH- どっちがいい なんでもいいから 一度お願いしたい Woo 恋し恥ずかし 原宿キッス」とどこまでも軟派な男子を描いています。

ジャニーさんの意向があったのかはわかりませんが、前作の「君に薔薇薔薇…という感じ」に続き楽曲を担当した筒美さんは、「原宿キッス」では転調したり、音階がコロコロ動いたりと、難解なサウンドを作っています。近藤真彦さんの楽曲は割に王道的な歌謡曲のサウンドを続けていたのに対し、田原さんの楽曲は今から思うと、どこか試していたというか、実験的に作詞も作曲も作っているように感じます。トシちゃんはあの頃歌が下手だと言われましたけど、いまyoutubeで動画を見ていても、歌いながら踊っていても息も切れていないし、低音は確かにふらつくけど、高音は割に伸びていたんだなと思います。今のジャニーズのタレントのように、口パクで済ますのではなく、ガチでやっていて、難解な歌を歌わされているんですから、よくやっていると思います。

当時の原宿は路上で踊る「竹の子族」というのが流行って、竹下通りは中学生・高校生で賑わっていました。ジャニーズ事務所もこの頃は小所帯で、原宿駅近くのマンションに合宿所がありました。田原さんにとっても原宿は思い出が多い街だと思います。


原宿キッス

ESCAPE

DAM★とものユーザーさんたちが公開する曲を聴いているなかで、そういえばこの曲あったなあという曲に出くわしたりします。最近出くわした1曲が、MOON CHILDが1997年5月に発売した「ESCAPE」という曲でした。今聴いても骨太なロックサウンドと、ボーカルの佐々木さんの声がマッチしている名曲だなあと思います。

この作品は、1997年4月~6月に日本テレビで放送されたドラマ「FiVE」の主題歌に起用されました。「FiVE」は、ともさかりえさん、鈴木紗理奈さん、篠原ともえさん、遠藤久美子さん、知念里奈さんが演じる5人のアウトローな少女たちが、犯罪組織と戦っていくというドラマでした。そういうドラマの筋書きを受けて「ESCAPE」が作られたのかはわかりませんが、歌詞の内容は、心の傷つき疲れ果てた男性が、愛する女性の下へ向かって、愛と癒しを求めていく姿を描いています。「もう誰も癒せない 傷跡に降り注ぐ雨 そう君と秘密を分けあうように ずっと孤独を抱いてくれ」とか、かっこいいと思ってしまいます。「裸の太陽 Ah この胸に 熱く 輝きながら」のフレーズあたりで、ボーカルの佐々木収さんがファルセットを入れながら強く歌っていたシーンが思い出されます。

MOON CHILDはいわゆるロックバンドとしてライブ活動をしていましたが、なぜかabex traxにスカウトされ1996年にデビューしました。「ESCAPE」は、楽曲と歌詞が当時の世相に合ったからだと思いますが、徐々に売れ始めて、オリコンで1位を取ってしまったんですね。おそらくこれは本人たちも周囲も予想外だったのではないかと思います。ただ、おそらくこれで、バンドの作詞・作曲・編曲を担っていた佐々木さんも忙殺されてしまったのかもしれませんが、1999年にMOON CHILD解散してしまいます。

その後、2013年に再結成しましたが、メンバーの交流は今でも続いているようで、険悪になって解散したわけではなかったんですね。ドラムでありバンドのリーダーでもあった樫山圭さんはDECAYSというバンドで活動しています。


MOON CHILD ESCAPE

君は薔薇より美しい

昭和のヒット曲のパターンの1つに、化粧品のキャンペーンソングというのがありました。日本の歌謡界を代表するボーカリストである布施明さんも、1979年春のカネボウ化粧品のキャンペーンソングとして発売したのが、「君は薔薇より美しい」でした。

作曲・編曲は当時の人気ロックバンド「ゴダイゴ」のリーダーであるミッキー吉野さんが行ったのは有名な話です。作詞は門谷憲二さんという方で、泉谷しげるさんと音楽活動を共にした後作詞家になった方です。歌手に提供した作品は、木の実ナナさんの「うぬぼれワルツ」、テレサ・テンさんの「ジェルソミーナの歩いた道」、布施明さんの「カルチェラタンの雪」と、大人の渋い楽曲が多いです。

布施さんは元々シンガー・ソング・ライター的な活動を目指していた感じがあって、自身のシングルに自分が作詞や作曲をした作品を入れています。それと、「シクラメンのかほり」以降はフォーク・ソングを志向していたところがあり、「落葉が雪に」や「めぐりあい紡いで」を発表されました。そういう布施さんにとっては久しぶりのポップなサウンドで、しかも明るいイメージの楽曲というのも珍しかったです。やはり化粧品のキャンペーンソングですから、歌の世界でも前向きな女性のイメージを出さなければならなかったんだと思います。「目に見えない翼ひろげて 確かに君は変った 歩くほどに踊るほどに ふざけながらじらしながら 薔薇より美しい ああ 君は変った」と生まれ変わったように美しく輝くようになった女性の姿を打ち出しています。

ぼくもDAM★ともでこの作品を歌うことがありますが、とにかく難しいんです。低音から高音へ跳ね上がる箇所が多いですし、最後の「あああああ 君は~ 変わったあ~」のところは音階をころころ変えたあとで、最後に高音でロングトーンですから、非常に肺活量が必要な歌です。布施さんのボーカリストの実力がなくてはとても歌いこなせません。紅白歌合戦では1979年(昭和54年)に初めてこの作品を披露しましたが、この時はサングラスをかけてギターを弾きながら堂々と歌いきっています。その後、2003年、2007年、2008年の紅白歌合戦ではタキシード姿でおしゃれなアレンジで披露しましたが、その歌声はますますパワフルになっているのには尊敬します。こういう布施さんのステージを見た若い世代の人は、布施明の作品というと「君は薔薇より美しい」を挙げる方が多いと思います。


君は薔薇より美しい / 布施明(1979)

 

東京ららばい

1978年(昭和53年)は今から39年前なんですが、ヒット曲の多い年であり、今聴いても古臭さがなくて、おしゃれな作品が多いです。その1つが、中原理恵さんの「東京ららばい」です。この作品は1978年3月21日に中原さんのデビュー・シングルとして発売され大ヒット、中原さんはこの曲で1978年の紅白歌合戦に初出場しました。

作詞は松本隆さんが作られました。春から夏になって、夜の気温も温かくなってくると、隅田川沿いとか芝浦あたりの湾岸では、東京の深夜を楽しむ恋人たちが集まるという光景は、その後の1990年代の「月9」のようなドラマの展開でよく出てきましたが、その源流というのが「東京ららばい」の歌詞なのかなと思います。「午前三時の東京湾(ベイ)は 港の店のライトで揺れる」おしゃれなバーでのひとときを過ごし、「午前六時の山の手通り シャワーの水で涙を洗う」朝帰りの自宅でのちょっとほろ酔い加減な自分。1970年代当時の歌詞は「東京」を否定的に見ている歌詞になりがちで、「東京ららばい 地下がある ビルがある 星に手が届くけど 東京ららばい ふれあう愛がない だから朝まで ないものねだりの子守唄」と、便利な都会の生活だけれど、何だか幸せが見えなくて、どこか孤独な東京の生活、というのが当時の歌謡曲における東京のイメージだったのかなと思います。ただし、都会のおしゃれな生活の面を書いたのは「東京ららばい」がその走りだったようで、泉麻人さんは「東京ららばい」のことを、「トレンド・シティとしての東京の確立を実感した曲」と評しています。

作曲は筒美京平さんが作られました。当時の筒美さんは、ニューミュージックの台頭を受けて、ニューミュージックのアーティストと一緒に作品を作る動きを見せていました。「東京ららばい」はディスコ・サウンドをベースにしていることから、これもよく書かれますが、1977年にサンタ・エスメラルダ(Santa Esmeralda)がカバーして大ヒットした「Don't let me be missunderstood」(邦題は「悲しき願い」。1960年代に尾藤イサオさんが歌って大ヒットしています。)のパクリではないかという説もあります。似て非なるものではないかな、とぼくは思いますが。日本の歌謡曲にラテンは意外と合うからこそ、節回しも引用してというのは、盗作ではなくて、音楽の調和としてはあり得るのかなと思います。

もっとも、松本先生は青山育ちで、自分が過ごした乃木坂・麻布・六本木・渋谷あたりを「風街」と呼び愛着を持っている東京のお坊ちゃんで、方や筒美先生も神楽坂育ちで、青山学院で育った東京のお坊ちゃんなので、そんな2人が作った「東京ららばい」が東京をよく表しているのもむべなるかなと思います。

中原さんも「東京ららばい」がヒットしたにもかかわらず、新人賞争いでは渡辺真知子さんやさとう宗幸さんという強敵がいたので、最優秀新人賞は取れませんでしたが、39年経った今でも、この3人の作品は色あせず残っているところに、当時の作品のレベルの高さを感じます。


東京ららばい - 中原理恵

 

の生活での恋人たち

迷い道

ニューミュージックと呼ばれる音楽が浸透し始めたのが1970年代ですが、そのピークに達した1978年(昭和53年)に大ヒットしたのが、渡辺真知子さんの「迷い道」でした。

「迷い道」は1977年11月1日に渡辺さんのデビュー・シングルとして発売されました。渡辺さんが作詞・作曲、編曲は船山基紀さんで、船山さんはその後も渡辺さんの一連のヒット作品の編曲を手掛けました。渡辺さんはシンガー・ソング・ライターだったんですが、他のシンガー・ソング・ライターがテレビ出演を拒否するなかでは、珍しくテレビ出演をしていきました。そのせいなのか、歌謡曲の歌手とか、当時あまりにも売れていたのでアイドル歌手のような扱いを受けることもあったようです。とはいえ、渡辺さんの持ち味はパワフルでありながら、繊細さも感じられるボーカル力にあります。

2枚目のシングル「かもめが翔んだ日」が非常にドラマチックな作品だったせいもあり、「迷い道」はやや地味な印象を受けてしまいますが、歌詞の内容は別れてしまった彼との再会を待ちわびる女性の揺れ動く心を絶妙に描いています。「まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって」という歌詞が1番と3番にあり、強気でいた自分への懺悔がこめられていて、「ひとつ曲り角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね」という歌詞で、ボタンの掛け違いからすれ違ってしまった今を後悔しています。そういう歌詞なんですが、渡辺さんのボーカルは湿っぽさを消し去って、生きていく強さを感じさせてくれます。

1978年はピンク・レディーのブームが頂点に達した年であったと同時に、ニューミュージックも多くのアーティストが活躍しピークを迎えた年でした。1978年の紅白歌合戦でNHKは「ニューミュージック・コーナー」という異例の枠を設けて、紅組は庄野真代さん、サーカス、渡辺真知子さん、白組はツイスト、さとう宗幸さん、原田真二さんの初出場6組が一気に歌唱しました。

当時はいわゆるニューミュージックの大物歌手が紅白歌合戦に出場することはなく、2002年の紅白歌合戦中島みゆきさんが「地上の星」で黒部ダムからの中継で初出場するまで待つことになります。


迷い道