「平成」も来年の4月で終わるわけですが、日本の歌謡史において「平成」を代表するアーティストを挙げるならば、それはやはりSMAPであると思います。
SMAPは1988年(昭和63年)に結成され、1991年(平成3年)9月9日にシングル「Can't Stop!!-LOVING-」でデビューしました。2016年(平成28年)12月31日をもって解散となるまで、28年間の長きにわたりトップアイドルとして活躍しただけでなく、NHK紅白歌合戦では6回もトリを務めた(うち5回は大トリ)ことはアイドルグループとしては極めて異例であり、もはやアイドルを超えた「国民的グループ」にまで成長したその功績は、賞賛すべきものであると思います。
そのSMAPは、デビューした1991年からNHK紅白歌合戦には出場したものの、CDの売上はデビュー以来「1位を取れない」状態が続き、コンサートでは空席が目立ち、ジャニーズ事務所における後継アイドルとしては、人気が今一つ出ない不振きわまりない状況が続いていました。
1991年のNHK紅白歌合戦に出場したジャニーズ事務所の先輩アイドルは、少年隊と光GENJIでした。田原俊彦さんのブレイク以降息を吹き返したジャニーズ事務所は、男性アイドルのかっこよさを前面に出したプロモーションを展開してきましたが、当時はアイドル歌手そのものが飽きられ始めてきた頃でもあり、SMAPのデビューから初期のプロモーションが上手くいかなかった原因もそういう時代の変わり目があったと思います。
SMAPの初期の作品にもいい曲はいくつもあって、彼らの強い武器である「親しみやすさ」もパフォーマンスからは滲み出ていたと思いますが、当時ジャニーズ事務所の事務職員であった飯島三智さんはSMAPの人気打開策として、これまでのアイドルが立ち入らなかったバラエティー路線に売り込みます。1992年からフジテレビで放送された「夢がMORIMORI」で、キックベースをする彼らの姿を見て、ぼくは初めてSMAPの人たちを知りました。当時のSMAPはお笑いをやるときも、アイドル番組のコントレベルではなくて、吉本のお笑い芸人と同じように「笑われる」対象に徹していたと言われます。いま思うと、事務所のお膳立てどおりに動けば自然とスターになれるビジネスモデルは終わっていて、たとえジャニーズの人気アイドルであっても、愚直に自分の歌を聴いてもらえるために、様々な活動を通じて名前を覚えてもらうという、本来の芸能活動に立ち返らないと生き残っていけない状況が当時はあったのだと思います。
SMAPのそういうプロモーションは、作られたスターの偶像を捨てて、親しみやすさを前面に出すものであったと思います。ショーアップした歌唱スタイルであった少年隊や、ローラースケートを駆使した華やかなステージであった光GENJIとは明らかに異なる路線でした。
そのSMAPが初めてシングルで1位を取ったのは、1994年3月12日に発売した12枚目のシングルである「Hey Hey おおきに毎度あり」という曲でした。SMAPの6人は全員関東地方の出身であるのに、歌詞はすべて関西弁、浪速の商人がテーマで、サビ以外のメロディーはほぼセリフ(今ならRAPのようでもありますが)という異色の作品でした。作詞・作曲を提供した庄野賢一さんは、その後に続く「がんばりましょう」、「たぶんオーライ」、「どんないいこと」などの作曲を提供し、SMAPの成長を支援したお1人です。
ぼくがこの曲を聴いて思い起こしたのは、第二次大戦後に「ブギの女王」として一世を風靡した笠置シヅ子さんでした。こてこての大阪弁を軽妙にパワフルなステージを披露した笠置さんなら、「Hey Hey おおきに毎度あり」って言いそうだなと思ったんです。
ジャニー喜多川さんも笠置さんの一連の作品はお好みだったようで、所属の男性アイドルにカバーを歌わせることが多いです。ジャニーさんは舞台で芸を披露するのは役者も歌手も芸人も同じであるという持論があり、アイドルが歌と踊りに加えて、お笑いをやれるのはエンターテイナーとしてなお良いことだと考えていたのも、SMAPには幸運だったと思います。
ぼくはDAM★ともでSMAPをお気に入りのアーティストにして、SMAPの作品も数多く歌ってますけど、この曲は難しくて歌えないなあと思います。ある意味、自分の中でこり固まっている「歌の型みたいなもの」を捨て去って、いっそ全然違う人になって歌ってみないと歌えないのかなあって思います。当時のSMAPもおそらくそんな気持ちだったのだろうと思います。でも、「Hey Hey おおきに毎度あり」の1位を契機に、SMAPはブレイクへの道を歩み始めたわけです。何がきっかけで、人生が好転するかわからないですね。