DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

恋人よ

年末が近づく頃になると、民放各局は「日本歌謡大賞」を始めとする数々の賞番組を放送していました。その頂点が「日本レコード大賞」であった当時は、「賞レース」をめぐって、レコード会社と芸能事務所が歌手の陣営を組んでしのぎをけずっていました。特に昭和55年は「五ハ戦争」と呼ばれる、五木ひろしさんと八代亜紀さんの賞レース争いが激化しました。他の歌手も「賞取り宣言」を行っていた中で、異彩を放ったのが、五輪真弓さんが「恋人よ」で「賞取り宣言」を行ったことでした。

五輪さんは日本のシンガー・ソング・ライターのパイオニア的存在の方で、1972年のデビュー・アルバム「五輪真弓/少女」では、彼女のデモ・テープを聴いたアメリカの女性シンガー・ソング・ライターのキャロル・キングが感銘し、レコーディングに参加したり、1976年にはフランスのCBSからアルバム制作の申し出があり、全編フランス語のアルバムを制作するなど、独創的な作品を提供し、海外で評価の高いニュー・ミュージックのアーティストでした。一方、テレビ番組への露出は少なかったので、コアなファンは多かったものの、お茶の間という一般大衆への知名度はまだ浸透していませんでした。

「恋人よ」は1980年8月21日に発売されるとじわじわとチャートの順位を伸ばし、12月にはチャート1位を獲得、結果的にはミリオンセラーを超える大ヒットとなりました。日本レコード大賞は受賞とはなりませんでしたが、金賞には選ばれました。またNHK紅白歌合戦にも初出場を果たしました。五輪さん的には「さよならだけは言わないで」あたりから、歌謡曲的なサウンドを織り交ぜれば、レコードセールスがヒットする確信を掴んだのだと思います。「恋人よ」を発売すれば、五輪さん自身が一般大衆に浸透する歌手になれるという自信があってのチャレンジであり、結果は大成功だったと思います。

その後、五輪さんはインドネシアで「心の友」が国民的な愛唱歌になったのを始め、アジア諸国での評価が高いアーティストとなっています。一番浸透していないのは日本かもしれません。


恋人よ 五輪真弓