DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

そして、神戸

1月になると思い出すのが、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災です。当時はインターネットも普及していなくて、その日の朝から東京では「大阪と連絡がつかない」状況が続き、お昼のNHKのニュースで、高速道路が倒壊している映像を目にして、初めて大惨事が起きたことを知りました。そしてその数日後に火災の延焼が相次ぎ、神戸の長田地区をはじめ、まるで戦後の焼け野原のような光景をテレビで見て驚愕しました。ぼくも当時、震災の応援ということで神戸に赴き、青いビニールシートが貼ってある屋根の家々の間を歩き、鉄道も寸断されてましたので阪急とJRを乗り継いで動いたことを今でもよく覚えています。神戸の中心街はそれから半年ぐらいで賑わいは取り戻しましたが、今までの町を失った心の痛みはなかなか解消されなかったのではないかと思います。そういう神戸の人たちが、心の応援歌として励みにしていたのが、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」という曲でした。

「そして、神戸」は彼らの14枚目のシングルとして、1972年11月15日に発売されました。作詞は千家和也さん、作曲は浜圭介さん、編曲は森岡賢一郎さんです。オリコン最高6位となるヒット曲となり、第6回日本有線大賞を受賞すると共に、第15回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。内山田洋とクール・ファイブは昭和44年から昭和57年まで通算11回、NHK紅白歌合戦に出場していますが、昭和47年は出場しておらず、クール・ファイブとして紅白で「そして、神戸」を歌ったことはありませんでした。

また、千家さんと浜さんはこの当時作詞家・作曲家として頭角を現わしてきた頃で、2人のコンビによる大ヒット曲としては「そして、神戸」の他に、奥村チヨさんの「終着駅」、三善英史さんの「雨」がありました。千家さんは第15回日本レコード大賞では「終着駅」で作詞賞を受賞しています。

さて、1995年の阪神・淡路大震災後、ソロ歌手となっていた前川清さんは「そして、神戸」の歌詞の冒頭「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我身が みじめになるだけ」というのが気になって、この曲を歌う気にはならなかったそうです。ところが、神戸の知人から結婚式でこの曲を歌って欲しいと言われ、本当にいいのかと思いながら歌ったそうです。ところが言葉とは面白いもので、神戸の人たちは冒頭の「泣いてどうなるのか」は自分たちへの励ましだと受け取ったんですね。「そしてひとつが終り そしてひとつが生まれ 夢の続き 見せてくれる 相手捜すのよ」という歌詞も、明日への希望だと思ったわけです。元々は男と女の恋模様、別れうただったわけで、まさか神戸の応援歌になろうとは、作詞を書いた千家さんも、歌っていた前川さんも、予想だにしなかったことだったと思います。1995年の紅白歌合戦では神戸市民からのリクエストが多かったことを考慮して、「特別企画」として、前川さんは「そして、神戸」をいつものように、直立不動でマイクを離しながら、堂々と歌われました。でも、今までとは違う緊張感があったそうです。前川さんの歌唱はこの年の紅白歌合戦の瞬間最高視聴率を取りました。あれから23年経ちましたが、今を生きる日本人が大震災を経験して、その後の震災にも活かされていることが多々あったように思います。


前川清 そして神戸