DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

心の友

日本の女性シンガー・ソング・ライターのパイオニアである五輪真弓さん。五輪さんは1972年のデビュー以来、日本よりも外国で評価されることが多い、日本の歌手では珍しいアーティストといえます。五輪さんはデビュー・アルバムのレコーディングをアメリカのロサンゼルスのスタジオで行いましたが、彼女のデモテープを聴いた現地のアーティストが感銘し、レコーディングに参加します。その1人がポップス歌手のキャロル・キングCarole King)でした。キャロル・キングは当時のロック全盛のアメリカの音楽界の中で、1971年に発売したソロ・アルバム「Tapestry」が全米チャートで15週連続1位という快挙を成し遂げました。その傍らで、五輪さんのアルバム制作のサポートを1974年まで続けました。

五輪さんは1980年の「恋人よ」の大ヒットによって、日本での知名度も上がりましたが、同時に東アジアでの人気も上昇し、今でも根強い人気を保っています。特筆すべきは、インドネシアでの五輪さんの浸透ぶりは物凄いレベルで、そのきっかけとなったのが「心の友」という曲でした。

この作品は元々、1982年に発売された五輪さんのアルバム「潮騒」に収録された1曲でした。インドネシアのラジオ関係者が日本で五輪さんのコンサートに行き、その時にこのアルバムを買って、インドネシアのラジオで「心の友」を流したところ、インドネシアの人たちに人気となりましたが、そのレベルが「第二の国歌」というほどの超大ヒットになったそうです。だから、インドネシアの人で「心の友」を知らない人はいないとまで言われるほどで、日本人を歓迎する行事では必ず歌われているようですが、当の日本人がこの曲を知らないので、インドネシア人は「何でだろう?」と思っているそうです。インドネシアはぼくは行ったことがないのでよく知りませんが、人口は2015年現在で2億5,000万人を超えているそうです。

五輪さんは当時お子さんを出産し活動を休まれていたそうで、「この地味な曲がどうしてインドネシアでヒットしたのか」戸惑いを覚えたそうです。ジャカルタに行かれたときも、街でも税関でも「コッコロノトモ」と呼びかけられたそうです。そして、「日本語の歌がインドネシアで受け入れられたのは、人々が歌詞ではなく、その曲が表現する本当の気持ちや感情を理解してくれたからでしょう」と語っています。

我々日本人が洋楽を聴く時と同じだと思いますが、言葉の意味はわからなくても、心の琴線に触れるような共感を覚えるというのはあるわけで、それはアーティストの声であったり、メロディーであったり、演奏であったりするわけです。

五輪さんは1987年の紅白歌合戦で「心の友」を歌唱しました。当時の紅白であればその年の曲を歌うわけですが、インドネシアでの大ヒットに対する五輪さんからの感謝の気持ちを表現するため、「心の友」が選ばれたのだと思います。

 


五輪真弓 心の友 歌詞

ジャカルタ日本祭りでも「心の友」が合唱されていました。これって凄いと思います。


ジャカルタ日本祭り JAK-JAPAN MATSURI 2011 Acara Finale / "Kokoro No Tomo -Kemesraan"

最近、「心の友」を歌っていた外国人の方をテレビで瞬間見たんですが、たぶんこの人だったかな。インドネシアの歌手のカバーよりもいいと思いました。


心の友 イルハミー・ルシディ・アハマド