DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

東京ららばい

1978年(昭和53年)は今から39年前なんですが、ヒット曲の多い年であり、今聴いても古臭さがなくて、おしゃれな作品が多いです。その1つが、中原理恵さんの「東京ららばい」です。この作品は1978年3月21日に中原さんのデビュー・シングルとして発売され大ヒット、中原さんはこの曲で1978年の紅白歌合戦に初出場しました。

作詞は松本隆さんが作られました。春から夏になって、夜の気温も温かくなってくると、隅田川沿いとか芝浦あたりの湾岸では、東京の深夜を楽しむ恋人たちが集まるという光景は、その後の1990年代の「月9」のようなドラマの展開でよく出てきましたが、その源流というのが「東京ららばい」の歌詞なのかなと思います。「午前三時の東京湾(ベイ)は 港の店のライトで揺れる」おしゃれなバーでのひとときを過ごし、「午前六時の山の手通り シャワーの水で涙を洗う」朝帰りの自宅でのちょっとほろ酔い加減な自分。1970年代当時の歌詞は「東京」を否定的に見ている歌詞になりがちで、「東京ららばい 地下がある ビルがある 星に手が届くけど 東京ららばい ふれあう愛がない だから朝まで ないものねだりの子守唄」と、便利な都会の生活だけれど、何だか幸せが見えなくて、どこか孤独な東京の生活、というのが当時の歌謡曲における東京のイメージだったのかなと思います。ただし、都会のおしゃれな生活の面を書いたのは「東京ららばい」がその走りだったようで、泉麻人さんは「東京ららばい」のことを、「トレンド・シティとしての東京の確立を実感した曲」と評しています。

作曲は筒美京平さんが作られました。当時の筒美さんは、ニューミュージックの台頭を受けて、ニューミュージックのアーティストと一緒に作品を作る動きを見せていました。「東京ららばい」はディスコ・サウンドをベースにしていることから、これもよく書かれますが、1977年にサンタ・エスメラルダ(Santa Esmeralda)がカバーして大ヒットした「Don't let me be missunderstood」(邦題は「悲しき願い」。1960年代に尾藤イサオさんが歌って大ヒットしています。)のパクリではないかという説もあります。似て非なるものではないかな、とぼくは思いますが。日本の歌謡曲にラテンは意外と合うからこそ、節回しも引用してというのは、盗作ではなくて、音楽の調和としてはあり得るのかなと思います。

もっとも、松本先生は青山育ちで、自分が過ごした乃木坂・麻布・六本木・渋谷あたりを「風街」と呼び愛着を持っている東京のお坊ちゃんで、方や筒美先生も神楽坂育ちで、青山学院で育った東京のお坊ちゃんなので、そんな2人が作った「東京ららばい」が東京をよく表しているのもむべなるかなと思います。

中原さんも「東京ららばい」がヒットしたにもかかわらず、新人賞争いでは渡辺真知子さんやさとう宗幸さんという強敵がいたので、最優秀新人賞は取れませんでしたが、39年経った今でも、この3人の作品は色あせず残っているところに、当時の作品のレベルの高さを感じます。


東京ららばい - 中原理恵

 

の生活での恋人たち