DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

星の砂

青い空や青い海の絵や写真を見ると、沖縄で見た青い空や青い海を思い出します。そして、沖縄県八重山諸島にある竹富島で出会った星の砂を思い出します。それでふと思い出したのが、小柳ルミ子さんの「星の砂」という曲でした。

この作品は1977年4月25日に小柳さんの22枚目のシングルとして発売されました。作詞は、現在は司会者としておなじみの関口宏さんが、作曲は「ヒデとロザンナ」で活躍した歌手の出門英さんが、編曲は森岡賢一郎さんが提供されました。

この作品が生まれたきっかけは、テレビ番組で、プロの作詞家・作曲家ではない芸能人が、オリジナルの作詞・作曲を作って、それをプロの歌手に歌ってもらうという企画でした。ぼくも当時子供だったんですけど、この番組を見た記憶がおぼろげに残っています。ここで関口宏さんが作詞し、出門英さんが作曲した歌を、由紀さおりさんが歌って、番組で優勝となったのですが、その歌は「八重山哀歌」という曲名でした。

歌詞の内容も、関口さんが八重山諸島を訪れた際に知った、八重山に伝わる悲恋の伝承をモチーフにしたものと言われています。ぼくも観光で石垣島竹富島西表島を訪れましたが、ガイドさんの説明を聞いていて、想像を絶する苦難の生活の歴史があったことを知り、沖縄本島周辺とは全く違う文化がここにあることを知りました。

さて、由紀さおりさんの「八重山哀歌」を聴いた小柳さんが、是非自分の新曲として歌いたいと熱望したことから、この歌は「星の砂」と曲名を変え、作詞も一部変更されて発売されることになりました。この曲はオリコン週間最高2位、年間13位を記録する大ヒット曲となり、この年のレコード大賞候補曲10組にも選ばれました。作詞の関口さんはこの年の日本作詞大賞作品賞を受賞しました。

小柳さんの代表曲というと、デビュー初期の「瀬戸の花嫁」や「わたしの城下町」といった「ディスカバー・ジャパン」路線の曲や、1980年代の「お久しぶりね」や「今さらジロー」のような歌って踊って魅せるエンターテイナー路線の曲の印象が強いです。そのため、小柳さんの他の多くのヒット曲は印象が薄くなり、「星の砂」も久方ぶりに思い出しましたが、改めて聴くと、曲の構成に華があるというか、冒頭に高音部のサビを持ってきたり、曲の最後の前のフレーズの「風よ吹け 波よ打て それであなたに つぐなえるならば」を入れたことによって、クライマックスが引き締まった感じがしました。そして、原曲の「八重山哀歌」がおそらく土地の伝承に即した内容であったと思うのに対し、「星の砂」は小柳ルミ子の作品としてのデフォルメを施されていて、島の悲恋と情景を残した歌謡曲へと変貌したのだろうと思います。そこは、小柳さんの作品を多くアレンジした森岡さんが決めていったように思います。

由紀さんの「八重山哀歌」はレコーディングはされませんでしたが、ヒデとロザンナが後に「星の砂」をカバーしましたが、その曲にある歌詞には、「嫁ぐ日 娘は 於茂登(おもと。於茂登岳のこと)に登り」「君住む多良間(たらま。多良間島のこと)に別れを告げる」と地名が入っており、おそらくこれが原曲なのではと思います。


小柳ルミ子 星の砂s


「星の砂」(八重山哀歌) ヒデとロザンナ コラボcover:流奈&numa

夏休み

最近ぼくがDAM★ともで歌っている曲に、林部智史さんの「この街」という曲があります。この曲は吉田拓郎さんが作曲しました。メイキング映像の中で林部さんがこの曲に出会ったとき、「吉田拓郎さん節というか、それをデモ音源ですごく感じて、今日歌ってみるまで、実際どういうふうになるかわからなかった」と感想を言われていました。吉田拓郎節ってどうだったかなと思い、吉田拓郎さんの曲を聴いてみた1曲が「夏休み」という曲でした。

この曲は1971年6月7日に発売されたライブアルバム「よしだたくろう オン・ステージ ともだち」で初めて収録されました。このアルバムは拓郎さんのMC部分も含めてまるまる収録したのが、当時としては先駆的な試みでした。

日本の歌謡曲やポップスにおける拓郎さんの功績の1つは、歌詞の「字余り」「字足らず」という手法で、今では珍しくなくなりましたが、当時の曲は1つの音譜に1つの文字という型ではまっていましたから、言葉を自由にメロディーに載せるというのは、インパクトが強いものでした。それと同時に、「1音1文字」という縛りを取ったことがその後の日本のサウンドをよりフレキシブルにしていくきっかけを作ったことが大きかったのかなと思います。

さて、「夏休み」は「字余り・字足らず」ではなく、「七・五調」をアレンジした「八・五調」の歌詞で、1コーラス3行の歌詞が、5コーラスまである、シンプルなスタイルです。

「麦わら帽子は もう消えた たんぼの蛙は もう消えた それでも待ってる 夏休み」で1番が終わってしまうんですけど、1フレーズ聴いただけで、子供の頃の夏休みの情景が浮かんでくる歌です。余り力を入れない感じで歌っているような「吉田拓郎節」の歌い方も感じることができます。

拓郎さんのメロディーは、割と音階の上下があって、離れた音へ飛ぶフレーズも多いので、歌うときにはどうしても声を張ってしまうことになりがちなんですが、拓郎さんはそこを同じトーンでさらっと歌えてしまうのが、上手さを感じるところです。

拓郎さんは「夏休み」について、「ただひたすらに子供だった時代の懐かしい夏の風景を描いた絵日記なのである。実在した鹿児島時代の"姉さん先生"も広島時代によく"トンボ獲り"で遊んだ夏もすべてが僕を育ててくれた"夏休み"なのだ」とコメントし、一部で伝えられているような、「反戦歌などでは断じて!ない!」と否定しています。

作家さんは得てして、本当の真意は語らないことが多いですけど、拓郎さんが言うとおり、子供の頃の日常を歌ったのは本当だと思います。そして、反戦歌ではないのかもしれませんけど、この曲を聴いた多くの方が、広島の原爆のことを思い起こしてしまう、それも歌を聴いた感じ方なのだろうと思います。

「夏休み」の短い歌詞の中には、喪失を表す歌詞が割と目につきます。麦わら帽子やたんぼの蛙は消えて、姉さん先生やきれいな先生はもういなくて、畑のとんぼはもういなくて。主人公は、そういう目の前からいなくなったものを待っている。鹿児島から広島に引っ越した拓郎少年の時代環境を思うと、1つの言葉についてメタファー(暗喩)が込められているのだろうと解釈しています。

拓郎さんの歌のバックボーンにあるものは、自然体とか自由とかである気がしています。拓郎さんがギター1本で自分の音楽を発表できることを知って人生が変わったそうです。そこには、自分が歌いたいものを歌うという素地があったと思います。歌で有名になりたいから、レコード会社にプロモーションを行いました。ところが当時のフォークは学生運動と連動していて、フォーク歌手の姿勢も反体制、反商業主義的な流行があったので、拓郎さんの行動は業界やフォークファンからは奇異に移ったそうです。でも拓郎さんは自分のスタイルを貫いて、フォークを大衆的な音楽として浸透させたとともに、しがらみを取っ払って、従来の「型」だけではない音楽の広がりへと繋げていったわけです。「夏休み」は、そういう拓郎さんのスタイルを体言した1曲であると思いました。


夏休み 吉田拓郎

かもめが翔んだ日

日本の歌謡史を振り返ると、ターニング・ポイントとなった年が何回かありますが、その1つは1978年(昭和53年)であったと思います。日本レコード大賞ピンク・レディーの「UFO」が受賞し、アイドル歌手が初めて受賞しました。NHK紅白歌合戦のトリは、紅組は当時19才の山口百恵さんが抜擢され「プレイバックPART2」を歌唱、白組は沢田研二さんが「LOVE(抱きしめたい)」で初の大トリを務めました。従来、演歌歌手が務めていた紅白のトリを、アイドル歌手である百恵さんと、歌謡曲のスターであったジュリーが務めるのは、ある意味歴史的な大変革でもありました。また、ニューミュージックが社会的に浸透してきたことを受け、この年の紅白では、紅組から庄野真代さん、サーカス、渡辺真知子さんの3組、白組からツイスト、さとう宗幸さん、原田真二さんの3組、計6組が初出場となり、当時の演歌不振を埋める形で、新しい音楽の波が寄せてくるようになりました。この年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞したのが、「かもめが翔んだ日」を歌唱した渡辺真知子さんでした。

渡辺さんは高校生の頃からヤマハポピュラーソングコンテスト(通称「ポプコン」)に参加したり、ソロとしての音楽活動を始めていたようですが、1977年11月1日に「迷い道」でデビューし、ベスト10入りする大ヒットとなりました。これに次いで2枚目のシングルとして1978年4月21日に発売されたのが、「かもめが翔んだ日」でした。作詞は伊藤アキラさん、作曲は渡辺さん、編曲は船山基紀さんです。冒頭のイントロの「ハーバーライトが朝日に変る その時一羽のかもめが翔んだ」は、作品の原案ではなくて、後から追加されて作ったものだそうです。このイントロ部分が強烈な印象が残っているだけに、ここがあるとないとでは大違いだったかもしれません。この曲を聴くたびに、海とか潮の香りが感じられるというか、それはきっと渡辺さんの出身地である横須賀や三浦の海かもしれないと想像しますけど、渡辺さんのパワフルな歌唱力と、ドラマチックなメロディーが盛り上がる歌だなあと思いました。編曲の船山さんが歌謡曲的なアレンジを加えたのも、ニューミュージックが親しみやすく受け入れられた要因の1つであったと思います。また、当時はニューミュージックのアーティストはテレビへの出演を事実上拒否していましたが、渡辺さんはテレビにどんどん出演をするタイプだったというのも、ニューミュージックがお茶の間に近づいた要因ではないかと思います。1978年の大ヒット以降も、渡辺さんのパワフルな歌唱力は今なお維持されているのもすごいことです。名曲はいつまでも色あせないと思わせてくれる1曲です。


、・カモメが翔んだ日 ・。・、


渡辺真知子 かもめが翔んだ日

Real Love

最近1990年代に活躍した男性アーティストの曲を歌ってみようと思い、DAM★ともでも歌っています。その1人である林田健司さんの曲の中で最近歌っているのが「Real Love」という曲です。

林田さんは1994年4月21日に、「花の紅白歌合戦」と題して「紅組」と「白組」の2枚のアルバムを同時発売しました。「Real Love」は「白組」の1曲として収録されました。作詞は林田さんとTimekeeperさんの共作、作曲は林田さんと長岡成貢さんの共作です。

「花の紅白歌合戦」では、「紅組」の8曲はマニアックな路線の曲を、「白組」の8曲はポップでキャッチーな路線の曲を揃えて、この2枚のアルバムの売上枚数やリスナーの投票によって「紅組」と「白組」の勝敗を決めるという企画があったそうです。

ぼくはリリースから数年経ってから、この「紅組」と「白組」を両方とも買って聴いてましたけど、ぼくは「白組」の方が好きな曲が多かったです。ただ、白組が売れ線な曲だったかというと、そんなことはなくて、ファンキーさやかっこよさは「紅組」も「白組」も変わらないように感じてました。ただ、「白組」の曲は「青いイナズマ」をはじめとして、林田さん自身のためにというよりは、他のアーティストに提供する色合いを持った作品であり、「紅組」の曲は林田さん自身のために作ったような作品という違いはあったようで、どちらが世の中に受け入れているのかを測ったのかもしれません。

林田さんの曲を歌うときに悩ましいのが、キーが高いということと、ファンキーなサウンドなゆえに音の刻み方が細かいので声の強弱をどうつけたらいいのか難しいということと、そのメロディーに歌詞を乗せて歌うにしても、どこでブレスを切って歌ったらいいのかわからないこととかありました。それでも歌ってみたいのは、林田さんの曲のかっこよさを自分なりに再現してみたいという気持ちなのかもしれません。

最近ほぼ初めて「Real Love」をおそるおそる歌ってみましたが、予想どおり歌ってみるとカッコよくて、爽快感も感じられる曲で、点数も95点超えができたので、もう少しがんばれるかなという感じです。こういう曲で1度はカラオケ大会で歌ってみたいなあと思ってます。


Real Love

同じ「白組」の曲で、ぼくが歌ってみたいのは「夜空かけて」と「このまま2人だけで」の2曲もなんですが、DAM★ともでは歌えないのが残念です。


夜空かけて


このまま2人だけで

 

仮面舞踏会

ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川さんが7月9日に亡くなられました。ジャニーさんは幼少期からアメリカのロサンゼルスで過ごしてきたこともあり、アメリカのエンターテイメントを肌で感じていたと思います。1952年にアメリカ大使館の通訳として来日したジャニーさんは、近所の少年たちに野球を教えていましたが、ある雨の日に、少年たちと映画「ウェストサイドストーリー」を見て一同で感動し、その後は少年たちに野球ではなくダンスを教えるようになりました。この少年たちから選ばれた4人により1962年4月に結成されたのが「ジャニーズ」でした。ジャニーズ事務所も1962年に渡辺プロダクションの系列会社として創業しました。ジャニーさんが目指したものは、単なるタレント育成ではなく、ミュージカル俳優のような歌って踊れるマルチタレントの育成を目指しました。

創業してから今日までの57年間、ジャニーズ事務所は多くのタレントを輩出しましたが、大きな2つの路線があったように思います。1つは創業期から目指していた「非日常的な舞台の演出」であり、偶像化された男性アイドルの育成であり、舞台・ミュージカル寄りのタレントの育成でした。

もう1つは、1980年の「3年B組金八先生」で人気を博した「たのきんトリオ」に端を発する、偶像化とは対照的に「お茶の間に近い大衆的な男性アイドル」の育成でした。昭和の終わりには偶像化の需要は薄れてきたため、当初光GENJIの路線を継承しようとして低迷していたSMAPは、バラエティー路線への進出を図ることで、さらに「等身大の男性アイドル像」を浸透させ、SMAPの成功がその後多くのアイドルグループを輩出し、また男性アイドル自体の人気寿命も大幅に長期化させることとなり、ジャニーズ事務所が日本の芸能界において強大な勢力となったのはいうまでもありません。

ジャニーさんが亡くなって、ジャニーズ事務所で育った多くの男性アイドルを振り返り、ジャニーさんが目指していたアメリカのエンターテイメントを体言していたのは誰かなと考えたんですが、ぼくはそれは滝沢秀明さんでもなく、堂本光一さんでもなく、少年隊の錦織一清さんではないかなと思っています。

錦織さんは12才でジャニーズ事務所に入りましたが、優れた運動神経を持っていて、ダンス、芝居、歌、美術系など多彩な才能を持ち、デビュー前から注目を集める存在でした。当時は「金八先生」シリーズのドラマに同じ事務所のタレントが出演し、田原俊彦さん、近藤真彦さんに続き、1982年にシブがき隊がデビューし、少年隊は1981年に結成され、歌番組に出演したり、アメリカに行って舞台経験を積んでいたものの、メジャーデビューは1985年と遅いものでした。しかし、そのデビュー曲「仮面舞踏会」は今でも印象深い曲であり、彼らにとっての代表曲ともなっています。

「仮面舞踏会」は1985年12月12日にデビューシングルとして発売されました。1986年の年間3位を獲得する大ヒットとなり、同年のNHK紅白歌合戦に出場し、トップバッターで歌唱しましたが、この時に白組司会の加山雄三さんが曲名を豪快に「仮面ライダー!」と言って間違えたことは、紅白の歴史に残る思い出のシーンとなっています。


全日本紅歌星大賽 化裝舞會

作詞はちあき哲也さん、作曲は筒美京平さん、編曲は船山基紀さんです。作詞のちあきさんは矢沢永吉さんの作品を多く手掛けていて、矢沢さんのファンだった錦織さんがちあきさんに作詞を書いて欲しいと希望したそうです。また、「仮面舞踏会」のイントロの(Tonight ya ya ya・・・tear)という歌詞は錦織さんのアイデアにより加えられたというエピソードもあります。

また、少年隊は1986年7月5日にミュージカル「PLAYZONE」(プレゾン)を初上演してから、2008年8月31日までの22年間主演を務めました。そして、翌2009年からの上演では錦織さんが演出を務め、後輩のタレントたちがキャストを演じています。

ぼくが錦織さんに目をひかれたのは、スマスマに出演された時のことだと思いますが、SMAPがバラエティーをやり始めた頃に、先輩の中でほぼ唯一「いいよ!」と言ってくれたのが錦織さんだったそうです。そして、「SMAPジャニーズ事務所の鎧を着ていないのが、ぼくはかっこいいと思う」とも番組の中で話していたのが印象的でした。ジャニーさんが、あらゆる方向に進出することは自分の方針と合っていると言っていたことを、共感できていたのだろうと思います。そして、自分とは違う路線で活躍したSMAPの良さをしっかりと評価できるという審理眼がまた凄いと思います。


SMAPはジャニーズ事務所の鎧を着ていない感じがするからカッコよかったBy錦織

錦織さんは最近は舞台の演出を精力的に手掛けていますが、ジャニーさん亡き後、次代のタレントを育成できる手腕を持っているのは、彼だと思います。いま、錦織さんの動向も注目されていますけど、ジャニーズ事務所に縛られることなく、若い世代を育てていただくほうが、日本のエンターテイメントのためになりそうな気がします。

おかあさんの唄

7月20日の午前中にインターネットで記事をチェックしていたら、「そらる 歌い手は職業ではない」という記事を見つけました。冒頭に書いてあったのが

ボーカロイド曲やポップスのカバーなど、二次創作としての歌を動画共有サイトに投稿する人々は「歌い手」と呼ばれ、10代〜20代を中心に高い人気を集めている。なかにはネットを飛び出し、レコード会社からデビューしたり数万人規模のライブ会場を埋める歌い手も。その代表格のひとりが、動画共有サイトでの総再生数2億回以上を誇る「そらる」だ。甘い歌声と、独自の美意識に貫かれた世界観をもとにした彼の楽曲は、とりわけ女子中高生を惹きつけているという。歌い手となって10年が経つも完全な「顔出し」はNGというそらる。その「素顔」とは。

という文章。どういう方なのか気になったので、さらに記事の詳細を読みました。

自分の歌を多くの人に聴いてもらうには、昭和の時代はレコードを発売し、平成の時代はCDを発売ということで、それはプロの世界限定だったわけです。それが、YouTubeニコニコ動画を初めとする動画共有サイトの登場で、一般の素人も投稿して、自分の歌を多くの人に聴いてもらうことが可能になりました。その投稿者の中で再生回数を増やして、注目を集めるようになったのが「歌い手」と呼ばれる人たちです。

「歌い手」という言葉は、プロの歌手ではないという意味も含まれていますが、そらるさんは2008年から「歌い手」の活動を始めて、2016年からはレコード会社と契約しシングルをリリースしたり、2017年には横浜アリーナでの単独公演を開催していますので、プロの歌手と言って差し支えないと思います。

そらるさんは自分の歌声がダイレクトに聴き手に届くのが楽しくて、1つ、2つと付くコメントが嬉しいのは今も変わらないそうです。もちろん配信をしていると、いろんな意見をもらうそうです。「いい意見も悪い意見も。もちろんその全ての意見を聞くことはできませんし、全てを選ぼうとすると、ただ何の角もないものになってしまう。いろんな意見を聞いて、いろんな人の考えとか悩みとかを聞いていくうちに、自分なりの答えの出し方が見えてきたと思います」と、リスナーの反応を受けつつも、自分の歌の方向は自分で決めていったのが肝なんだと思います。

今はライブやCDもリリースするようになりましたが、「ライブやCDなど、ユーザーがお金を出すものに関しては、プロ意識は必要だなと思うんです。ですが、動画投稿は無料で聴けるもの。それを趣味として楽しんでやっていたら、聞いてくれる人が増えていった。動画投稿に関しては、別に今も仕事のようには考えていません。たくさんの方に聴いてもらいたいんです」という切り分け、プロの仕事と、動画投稿はアマチュアの延長という考えのようです。

カラオケ大会に出る上手い人の中には、ライブハウスでライブを開催して、お客さんからライブの料金を取っている方もいます。プロとアマの線引きは色々だと思いますけど、お金を頂く時点でそれはプロとしての責任を負うのかなとぼくは考えます。ぼくはDAM★ともも無料ですし、このブログも無料でやってますから、自由に歌ったり書かせてもらったりしてますけど、もしライブを有料で開催したりとか、有料のブログにしたら、気持ちも姿勢もガラっと変わるような気がします。

さて、そらるさんのコメントを読んでいると、共感することもいくつもあって、世代も違うし容姿も違うし歌うジャンルも違いますけど、「この人、僕と似てるところがあるんだな」と思いました。そもそも、どういう歌を歌われているのかを知らなかったので、そらるさんの歌声を何曲か拝聴しました。その1曲が「おかあさんの唄」という曲でした。

この作品は、2012年7月21日に公開された映画「おおかみこどもの雨と雪」の主題歌として発表されました。作詞はこの映画の監督である細田守さん、作曲はこの映画の音楽を担当した高木正勝さん、歌はアン・サリーさんという方が歌われました。


24.おかあさんの唄

そらるさんの「おかあさんの唄」の歌声は、どこかに優しさを感じる声がしました。ご自身がお好きな映画の主題歌ということもあるのか、気持ちが入っているのかもしれません。「366日」と「海中の月を掬う」も聴きましたけど、低中音の強みのある声も魅力があって、こういう雰囲気の曲が合っているのだと思います。歌や歌声に癒しを求める人は多いと思いますし、そらるさんの歌声は自然体な感じがしますので、若い女性のファンの人たちは、彼の声に癒されるんだろうなあと思いました。


おかあさんの唄(アン・サリー)cover / そらる

河内おとこ節

プロの歌手のステージは、アマチュアのカラオケとは違って、歌にもその歌手の味わいがあって、それでいて歌が引き締まっていて、華やかさもあります。さらにバックダンサーを従えて歌っている歌手のステージというのは、客席から見ても壮観な感じがあります。

いわゆるお囃子が上手な印象のある歌手というと、昭和の時代はやはり三波春夫先生でした。花柳糸之社中を従えても、自らも負けじと派手な着物を着て、迫力ある歌声で朗々と歌うステージは圧巻でした。


三波春夫 おまんた囃子

平成の時代に、お囃子調の曲として誕生したのが、中村美律子さんの「河内おとこ節」という曲でした。「河内音頭」の雰囲気が感じられるこの作品は、1989年(平成元年)6月28日に中村さんの3枚目のシングルとして発売されました。作詞は石本美由起さん、作曲は岡千秋さん、編曲は池多孝春さんです。発売当初は関西でヒットしていましたが、徐々に曲の人気が高まり、1992年には全国的なヒットへとつながり、中村さんは1992年の紅白歌合戦に初出場し、この作品を歌唱しました。中村さんは2010年まで紅白歌合戦に通算15回出場されていますが、このうち8回の出場で「河内おとこ節」を歌唱しました。本来はいろいろな歌を歌われているので、ご本人にとっては痛し痒しかもしれませんが、中村さんの強力な代名詞であることに変わりはありません。

河内おとこ節」って、アレンジの強みが際立っていて、この曲は夏の時期になると、地元大阪の盆踊りでもこの曲が使われることが多くて、ノリがいいという印象です。最初、中村さんが歌っているのを見たときも「面白いおばちゃんが、面白い歌を歌っているなあ」という感じでした。コーラスの最後で「かわ~ち~ ぶ~し~」と一旦しゃがんでまた立ち上がるパフォーマンスが、粋でかっこいいなあと思いました。

小さい頃から盆踊りの櫓の上で「河内音頭」を歌ってきた中村さんにとって、「河内おとこ節」に出会ったとき、「これは私の歌や!」と思ったそうです。「もしこの曲が売れなかったとしても、私は満足や。この歌が私の元に来たというだけでうれしかったからね」ということだったのですが、手ごたえは最初から感じていたそうです。

歌手の方がヒットに恵まれなくても活動を続けられるのは、「歌が好きだから」なんだそうです。歌えることが幸せで、歌えることに感謝するという気持ちを持つというのはすごくその気持ちが納得できます。だから、いろいろなことに気をつけながら練習して歌うことに慣れてしまうと、「歌は楽しく歌うもの」という本来の気持ちを忘れていることに気が付いたりします。時には何も考えずにパーっと歌って、歌の楽しさを思い出して元気にさせてくれる、「河内おとこ節」はそんな1曲だと思います。


河内おとこ節 中村美津子