DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

夢やぶれて(I Dreamed a Dream)

今から10年前の2009年4月11日、イギリスのテレビ局ITVで放送されている公開オーディション番組「ブリテンズ・ゴッド・タレント(Britain's Got Talent)」に出演したのが、当時47才のスーザン・ボイル(Susan Magdalane Boyle)でした。

彼女がステージに登場したときの観客の反応は「どうしてこのおばさんがこの番組に出るの?」という空気でした。そして、彼女のたどたどしい垢抜けない話しぶりはいかにも素人らしいそのものでした。審査員のサイモン・コーウェル(Simon Philip Cowell)はスーザンに尋ねます。「OK、夢は?」スーザンは答えます。「プロの歌手になることです」この時、番組はそれを失笑する観客の表情を抜き出します。サイモンは続けます。「なぜ実現できなかったと思う?」スーザンは返します。「チャンスがなかったんです。でもここで変われるかも」と。さらにサイモンは尋ねます。「誰のような歌手になりたい?」スーザンは「エレイン・ペイジ」と答えます。そして、彼女はここで、ミュージカル「レ・ミゼラブル」の劇中歌である「夢やぶれて(I Dreamed a Dream)」を歌います。

彼女が最初のフレーズを歌った途端、会場の空気は一変しました。審査員はその歌声に目を丸くし、観客は一瞬息を呑んでから総立ちになり、彼女が歌っている間から割れるような拍手が巻き起こり、会場はスタンディングオベーションとなりました。こういう動画を見ると、人間ってそんなにころっと心を変えられるものなのかなと訝ってしまいますけど、賞賛すべきものは賞賛するのがイギリス人の気質なのかもしれません。

彼女が歌い終わった後、審査員のピアーズ・モーガンは「番組が始まってから3年で最大の驚きです。あなたがエレイン・ペイジのような歌手になりたいと言ったら、あざけるように笑う人もいましたが、いま笑う人は誰もいません」と絶賛、続けて審査員のアマンダ・ホールデンも「初めあなたに味方はいなかったと思いますし、皆冷ややかな見方をしていたと思いますが、目を覚ませてくれました。そしてその歌声を聞けたことは光栄なことであったと思います」と最大級の賛辞を送りました。最後にサイモンは「最初から僕にはわかっていたよ」と言って会場を笑わせましたが、出場者を酷評することで有名なサイモンが、スーザンが歌っている様子を何とも優しい表情で見ているのが何とも印象的でした。同じく、ピアーズもアマンダも同じく柔和な表情でスーザンを見ていたんですよね。アマンダは途中で立ち上がって拍手し目も潤んでましたから。

そして、スーザンはここで3人から「最大級のYES」を貰って、プロの歌手としてデビューを果たしました。

カラオケ大会に出ているぼくは、こういう動画って感情移入しやすいものがあります。数少ない涙を流せる動画っていう感じです。スーザンが冷ややかだった観客の心を動かしたものは何なんだろうって思うんですけど、歌が上手かったからというのは当然として、その歌う姿勢は素人のおばさんのままで、スーザンが人生で得てきた自分の歌をまっすぐに歌ったからだと思うんです。オーディションですから、歌を勉強し、いろいろな技術や見せ方を会得している出場者も多いと思いますけど、敢えてそういう場に、あるがままの歌を披露したスーザンの姿は、観客に新鮮な衝撃を与えたのだと思います。ぼくもカラオケ大会で歌っているときに、審査員の先生たちに柔和な表情になってもらえるような、そういう歌が歌えたらいいなと思います。


【HD】スーザン・ボイル 〜夢をつかんだ奇跡の歌声〜

サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)

オーストリアザルツブルク(Salzburg)という街に行ってきました。ザルツブルクは音楽の街であり、音楽家モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart)が1756年に誕生して25歳まで生活していた街であるため、彼の音楽を愛する世界中のファンがここを訪れます。毎年夏に開かれるザルツブルク音楽祭(Salzburger Festspiele)はモーツァルトを記念した世界最大の音楽祭の1つとして知られています。この音楽祭の芸術監督を務めた指揮者のカラヤンHerbert von Karajan)もザルツブルクで生まれました。

そして、ザルツブルクは世界的に大ヒットした映画「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」の舞台となった街でもあり、現地でも映画のロケ地を訪れるツアーが数多く開催されています。この映画は1965年に公開されたミュージカル映画で、1938年のドイツによるオーストリア併合及び第二次世界大戦の前夜の頃の、トラップ大佐と子供たち、トラップ家に家庭教師としてやって来た修道女見習いのマリアの物語です。

ぼくも随分前にこの映画を見ました。マリア役を演じた主演女優のジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)の印象が強烈に残っています。沢田研二さんの愛称が「ジュリー」になったのは、彼がジュリー・アンドリュースのファンであったからという話は有名です。

飛行機の中のオーディオにも入っていたのが、「ドレミの歌(Do-Re-Mi)」でした。


"Do-Re-Mi" - THE SOUND OF MUSIC (1965)

トラップ家の子供たちは母親を亡くしてから長く家で音楽を奏でることがなかったため、「皆が知っている歌がひとつもない」と言うので、マリアは子供たちに歌を基礎の基礎、ドレミの階名から教えるというシーンから生まれた歌でした。原曲はこの映画の音楽を担当した、オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Greeley Clendenning Hammerstein II)が作詞を、リチャード・ロジャース(Richard Charles Rodgers)が作曲をしましたが、日本では歌手のペギー葉山さんが訳詞したバージョンがよく知られています。

この映画では、今ではジャズのスタンダードにもなっている「私のお気に入り(My Favorite Things)」も歌われています。映画では、雷を怖がる子供たちがマリアの部屋にやってきて、マリアが「哀しい時、つらい時は楽しいことを考えましょう」と教えるシーンで歌われます。


My Favorite Things from The Sound of Music

日本のCMで聞き覚えがあると思ったら、「そうだ、京都 行こう。」でした。


【CM】JR東海 そうだ京都、行こう。

この映画には実在のモデルがいて、ゲオルク・フォン・トラップ(Georg Ludwig von Trappと)いう海軍少佐が、1927年にマリーアと結婚し、亡くなった前妻アガーテの子供たちとマリーアの子供たちでトラップ・ファミリー合唱団を結成して有名になります。1935年のザルツブルク音楽祭に参加し、神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌い優勝し、この合唱団はオーストリアで人気となり、やがて一家はヨーロッパ全域を巡り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートツアーを行うようになります。

1938年、オーストリアナチス政権下のドイツと併合します。ゲオルクはナチスの旗を家に飾ることを拒否し、ドイツ海軍省からの召集も拒否します。また、ヒットラーの誕生日にミュンヘンで行われるパーティーで、一家が祝福の歌を歌うことを要求され激怒しつつも、これ以上ドイツに抵抗すれば家族に危険が伴うことを恐れ、一家でオーストリアを離れることになりました。映画では山を越えてスイスに渡ったことになっていますが、実際はアメリカのエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、一家と行動を共にすることに決めたヴァスナー神父とともに汽車を乗り継いでイタリア、スイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航しました。

トラップ一家を描いた映画は、マリーアの自叙伝を原作として、1956年に西ドイツの映画「菩提樹(Die Trapp-Familie)」が公開され、続編として1958年に西ドイツの映画「続・菩提樹(Die Trapp-Familie in Amerika)」が公開され、これをモチーフとして製作されたのが「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」でした。

公開後50年以上を経て、後世の音楽に大きな影響を与えた不朽の名作となりましたが、それを生み出したのは、オーストリアの山々を背にしても霞まないことのないジュリー・アンドリュースの朗朗たる歌声にあったと思います。


【英語】サウンド・オブ・ミュージック (The Sound of Music) (日本語字幕)

きっとできない じっとしない

ここのところ1990年代~2000年代の音楽を聴いている中で、YouTubeの中を泳いでいたら、米倉利紀さんの「きっとできない じっとしない」という曲に出会いました。

米倉さんは「堂本兄弟」でお姿を拝見したことが多かったですけど、米倉さんの楽曲はダンサブルで、今から思うとR&Bやファンクを取り入れてたのかもしれませんが、米倉さん自身も長身のロン毛のイケメンないでたちで踊りながら歌っていたので、かっこいいなあという印象が残っていました。

いま米倉さんはどのような活動をされているのかと思って、公式サイトを拝見したら、毎年アルバムを出されていて、コンサートも開催されているのがわかりました。5月25日の米倉さんのmessageには「27年前の今日、デビューアルバム「bella donna」がリリースされました。27年かぁ、感慨深い」とありました。

米倉さんは1992年4月25日にシングル「未完のアンドロイド」で19才でデビューしました。「きっとできない じっとしない」は1993年9月25日に5枚目のシングルとして発売されました。作詞は松井五郎さん、作曲は羽田一郎さんです。この曲もセールスとしてはヒットしてないんですけど、どこかで印象に残っていて、今回初めてしっかりとこの作品を聴いてみて、表現力の上手さを感じました。本当は難しいメロディーも、ステージではさらっと歌って見せるのはその1つかなと思います。

今年は最新アルバム『analog』を掲げ“analogな心”をコンセプトに全国18都市25公演を行うとのことで、3月にライブへの思いを語る米倉さんのインタビュー記事を拝読しましたが、デビュー前から一貫して音楽に正面から向き合っている方なんだというのをすごく感じました。“生かされていることを無駄にしない”という信念が根底にあるようで、「その時間をどう生かしていくのかというのが、僕の『ライブ感』なのかな」と語っています。そして、歌でもダンスでもビジュアルでも入口はどこからでもいいから、ライブが終わったところで、米倉利紀の思いにたどり着いてくれればいいというのが、何とも心の広いコメントであり、自分の信念は曲げないところが窺えました。こういう姿勢であるからこそ、音楽業界の人たちに愛されているような気がしました。米倉さんのデビュー25周年に際し、多くの方がコメントを寄せているんですが、結構愛に溢れたコメントが多かったです。松井五郎さんも次のようなコメントを寄せていました。

米倉利紀25th Anniversary

 1993年「きっとできない じっとしない」で出逢ってから24年。
当時はまだ16ビートのリズムに日本語を乗せられるグルーヴを持ったシンガーは少なかった。
そんな中で、米倉利紀はかなり難解な言葉の乗せ方も想像以上に表現してくれた。
スタジオへ行くのが楽しかったのを覚えてる。
もちろん歌詞には意味が必要だ。
しかし、それだけでなく、音或いはグルーヴとしての快感もなくてはならない。
 紙上の言葉に体温を与える力を、米倉利紀は持っている。」


米倉利紀 きっとできないじっとしない

盛岡ブルース

日本の演歌・歌謡曲・ポップスには「ご当地ソング」と呼ばれる歌が多くあります。歌のタイトルや歌詞に、地方や町の名前とか、各地方の風習・文化・地形に関する事柄などを取り入れて、地方色や郷愁などを前面に打ち出した作品であり、今では水森かおりさんが「ご当地ソングの女王」と呼ばれていますが、ぼくが往年の「ご当地ソングの女王」と思うのは、青江三奈さんだと思います。

青江さんの大ヒット曲は「伊勢佐木町ブルース」、「池袋の夜」、「長崎ブルース」といずれも地名が入っていますが、青江さんが歌うと、伊勢佐木町や池袋や長崎の町の情景が浮かんでくる感じがします。ぼくが青江さんって歌上手いなあって思ったのは、飛行機に乗ってオーディオで懐メロのチャンネルを聴いていると、ヒット曲ではなくて初めて聴いた曲でも、「夜の瀬戸内」「木屋町の女」「神戸・北ホテル」でしたが、不思議とその土地を思わせる歌唱力ってすごいなあと思うんです。2016年4月には「日本列島おんなの旅路 青江三奈ご当地ソングを唄う」というアルバムが発売されていますが、「東日本編」が「小樽の灯」から「伊勢佐木町ブルース」までの18曲、「西日本編」が「木屋町の女」から「日本列島・みなと町」までの19曲、収録されています。

さて、ぼくが最近歌っているのが「盛岡ブルース」という曲です。この作品は、NHKで放送されていた「あなたのメロディー」という番組から生まれた曲で、視聴者が作詞・作曲を応募して、その中で優秀な作品を選んで、番組でプロの歌手が歌唱する番組だったんですが、つのかけ芳克さんが作詞・作曲をされた「盛岡ブルース」は1978年の年間最優秀曲賞に選ばれ、歌唱した青江さんのシングルとして1979年に発売されました。1979年の紅白歌合戦で青江さんは「盛岡ブルース」を熱唱されていますが、冒頭の「青い灯が揺れる」から情感の入れ方や言葉の発し方に工夫がされているのがよくわかります。ただ歌詞をなぞって歌っただけではともすれば平板な歌になってしまうところを、歌に緩急をつけて1シーンを作り出すのが表現力であって、そこに「盛岡の夜」も「君と出逢った中の橋」も「思い出の大通り」も浮かんでくるわけで、詞や曲に命を吹き込むのが歌手の仕事なんだなということをつくづく感じます。

青江さんの動画を見て感心するのは、自分の歌に歌った歌手への敬意を示してからステージに入ってくる礼節がどの歌手よりも気をつけてされていたところにあります。衣装も決してけばけばしくはなくて、分を弁えた華やかなドレスを身に纏い、決して嫌味を感じない綺麗なステージングであったなあと思います。昭和の名歌手の動画を見て、自分の歌に生かしていきたいことはいくつもあると思います。


青江三奈 / 盛岡ブルース

かなしみ模様

日本の歌謡史の中で、歌唱力は勿論のこと、歌の表現力においても群を抜いていたのがちあきなおみさんでした。ちあきさんが現役の歌手活動をされていた頃は、「喝采」のイメージが余りにも強烈でしたが、1992年にご主人と死別後、一切の活動を停止した後になってから、ちあきなおみの歌の世界がクローズアップされ、彼女が歌った多くの作品が再評価され、注目を浴びるようになりました。

ぼくもちあきさんの歌をYouTubeで聴くようになって、その歌の上手さに驚き、その歌の迫力に衝撃を受け、こんなに上手い歌手だったのに、どうして気付かなかったのかなあと思っています。ぼくがカラオケで歌を歌うときに、ちあきさんの歌い方はお手本の1つになっていて、歌詞を棒歌いするのではなく、歌詞に情景を入れる歌い方は特に参考にしています。ちあきさんの歌の上手さは、「朝日のあたる家」のように声量を張り上げて歌うこともできれば、「紅とんぼ」のように語るようでいてしっかりと歌うこともできる変幻自在のコントロール能力にあります。ですから、さらっと歌っても歌の上手さが光るわけですが、そんな1曲が「かなしみ模様」という曲です。

この作品は1974年9月1日にちあきさんの18枚目のシングルとして発売されました。作詞は阿久悠さん、作曲・編曲は川口真さんです。当時、1974年11月25日にシングルと同名の「かなしみ模様~新しい出逢い、そして新しい出発(たびだち)」というアルバムも発売され、全曲の歌詞を阿久悠さんが手掛け、作曲を川口真、筒美京平小林亜星猪俣公章、及川恒平の各氏が提供しました。この頃のちあきさんは「喝采」の延長線上にあるともいえる、まだ自然体なポップスを歌っていました。後年のちあきさんが演歌やニューミュージックやシャンソンやファドと、あらゆる分野の歌に挑み、強烈な作品を残していったことを考えると、ある意味「かなしみ模様」の頃は貴重な時期だったかもしれません。

1974年のNHK紅白歌合戦でちあきさんは「かなしみ模様」を歌唱しましたが、Aメロ、Bメロは語るように歌っていたと思ったら、次第に声をじわじわと盛り上げていって、サビでは訴えるように歌っていく、実にあっぱれな歌いっぷりでした。歌を終えてお辞儀をするときのちあきさんの表情がニヤリとしていて、「お客さま、私の歌はいかがでしたかしら」と問いかけているようにも思えるのです。


悲しみ模様 ちあきなおみ

Flamingo

DAM★ともで長年お互いの公開曲を聴きあっているユーザーさんが久しぶりに新しい公開曲を出してくれて、その曲が米津玄師さんの「Flamingo」という曲でした。

テレビでサビの部分をさらっと見た記憶はあったんですけど、しっかりとフルで聴くのは初めてでした。

米津さんの作品は、ご自身が歌われている「灰色と青」と「Lemon」、作品を提供された「パプリカ」ぐらいしか知らないんですが、「Flamingo」も新たな音づくりを試そうとしているんだなあと感じました。ただ、米津さんの歌って、都会の雑踏の雰囲気に合う感じもしながら、地方の高台の丘に上って、目の前に見える山並みに向かって叫ぶように歌っても、それはそれで合うのかなあとも感じました。米津さんが作品づくりの際にそういうシチュエーションだったら面白いなあと勝手に考えてます。

2018年の米津さんは、3月14日に8枚目のシングル「Lemon」を発売し、ドラマ「アンナチュラル」の主題歌となったこともあり、2018年を代表する大ヒット曲となりました。紅白歌合戦にも出場し、大塚国際美術館のホールで歌ったシーンは印象的でした。その「Lemon」のインパクトが強すぎたせいか、10月31日に発売された9枚目のシングル「Flamingo」は、年間28位のセールスは10月発売としては凄いんですが、ちょっと隠れた印象があります。

ぼくは「Lemon」ってポップスの王道に沿った曲というか、ある意味平成の歌謡曲だなあと思っていて、それに対して「Flamingo」は創作的な作品だと思います。サウンドR&Bっぽいのに、歌詞に古めかしい言葉を使ったり、2コーラス後からラストサビまでの間の歌い方は、こぶしを回した歌い方を多用したり、どことなく民謡とかフォルクローレを感じる節回しなんです。米津さんは島歌や沖縄民謡にヒントを得られたコメントがありましたが、それでも島歌に寄り過ぎることもなく、サウンドはドライにかちっと固めているのが、この作品がエッジの効いた仕上がりになっているのだと思います。

カラオケで米津さんの作品を歌っている方でものすごく多いんですよね。それにあまり興味がなくて、米津さんの作品を歌ったことはなかったんですけど、「Flamingo」は歌ってみたくなったので、試してみようと思います。


米津玄師 MV「Flamingo」

愛が信じられないなら

DAM★とものユーザーさんが歌っているのを聴いて、自分も歌ってみたくなる曲というのがありまして、令和初のカラオケでは、そういう曲を何曲か歌ってみました。その1曲が山内惠介さんの「愛が信じられないなら」という曲でした。

この曲を初めて聴いたのは昨年末の「第51回年忘れにっぽんの歌」で、山内さんが歌われているのを拝見したんですが、歌に華がある感じで、アレンジがいいなと思いました。作詞が松尾潔さんというのに驚きました。松尾さんはCHEMISTRYEXILEの作品でのR&Bのイメージしかありませんでしたから、まさか演歌の世界に入ってくるとは思いませんでした。作曲は山内さんの師匠である水森英夫さん、編曲は馬飼野俊一さんです。

ぼくが歌いたいと思う演歌歌手の方の曲は、ド演歌ではなくて、どこかにポップスの匂いを残した歌謡曲のような作品が多いです。「歌は3分間のドラマ」という言い尽くされた言葉がありますけど、歌はドラマチックであって欲しいというのが自分の好みとしてあるので、馬飼野さんのアレンジがドラマを際立たせてくれる感じがしました。それと、山内さんの曲を何曲か歌っているうちに、水森先生の独特の節回しがあるのに気付きました。特に低音の部分とか、ここは歌わないといけないんだなあっていうのが、ちょっとだけ見えてきました。

それで松尾さんがどうして山内さんの作品を手掛けることになったのかを探していたら、山内さんと松尾さんの対談記事を見つけました。山内さんと松尾さんって同郷だったんですね。それと水森先生と仕事を一緒になる機会があって、お声かけを頂いたんだそうです。松尾さんは水森さんが歌われた「たった二年と二ヶ月で」が好きな曲で、この曲の延長線上に水森さんの多くの作品が発展しているとの考えをお持ちで、水森作品への共感はあるとのことです。松尾さんが「R&Bももとはアメリカの黒人にとっての歌謡曲ですから」というのは、世界のどの国にも、国民に根付いた歌、大衆歌でも流行歌でもあるわけで、ぼくもこの対談記事を読んでいると、松尾さんの考えに共感することがいくつもありました。

演歌の作品に挑んだ松尾さんの気持ちは、「今までパン食だった人間が初めてごはんにトライする感じ」だったそうです。一方、水森さんや山内さんもどんな作品ができあがるのかと、その化学反応に興味津々だったそうです。この作品ができたとき、山内さんは「和からでた洋だ」と思い、「来た!」と嬉しかったそうです。

日本の歌謡曲は、演歌だ、ロックだ、ポップスだ、アイドルだと細かすぎる分類を繰り返した結果、世代を問わず誰もが知っている歌というのが非常に少なくなってしまったと思っていて、そういう歌の最新曲はおそらく、SMAPの「世界に一つだけの花」だと思ってます。いま一度、「流行歌」という一括りの中に日本の歌が集まって、演歌とR&Bのクロスオーバーのような作品づくりをしていくなかで、令和の時代の歌も生まれてくるような気がします。


愛が信じられないなら 山内恵介