DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

a better tomorrow

ぼくがDAM★ともでお気に入りにしているアーティストのCHEMISTRY。彼らの魅力はその歌唱力であって、CDよりもライブで聴いた生歌の方がずしっと感じられる歌手です。それ故に、CHEMISTRYの作品の中にはとてもカラオケ向きではない難しい曲もあります。ぼくも練習してますけど、公開する気にはなれない曲がありまして、その1曲が「a better tomorrow」という曲です。

この作品は2011年2月16日に彼らの31枚目のシングルとして発売されました。元々は、2010年11月3日に「CHEMISTRY+Synergy」名義で発売した「Keep Your Love」のカップリングで、韓国語で収録されています。彼らも歌うに当たっては韓国語の指導を受けたそうです。2010年に公開された韓国の映画「無籍者(邦題:男たちの挽歌)」の全世界向けの主題歌として収録されました。CHEMISTRYは2002年のサッカー日韓W杯大会の時に、韓国のアーティストとユニットを組んで、大会テーマ曲「Let's Get Together Now」を歌った経緯もあって、映画制作側から主題歌のオファーが来たそうです。その後この映画が日本公開となったことに合わせて、もともと作っていた日本語バージョンでの作品を発売となったわけです。

映画のテーマが男たちの絆とか兄弟愛なんですが、歌詞もそうだとわかっていればなるほどなんですが、ぽくはラブストーリーの純愛な感じと勘違いしていました。主題歌ということもありますが、ストレートなメロディーで王道のバラードなんですね。堂珍さんも川畑さんも声が突き抜けるような強さと透明さを持っていて、きっと映画を見ていた方にもその歌声が届いたのではないかと思います。

ハモリは少ない方らしいんですが、サビではしっかりといつものCHEMISTRYらしいハーモニーを奏でています。ぼくもこの曲をずっと練習してますけど、こんなに声を張り続けて歌えないのが難しいところです。新曲の「Windy」も2コーラスが終わってからが、やたら難度の高い旋律が続くので、どうやって歌の雰囲気を出せるのかなあと考えてしまいます。それだけ歌いがいがあるのもぼくにとっては、CHEMISTRYが好きなところです。


CHEMISTRY - a better tomorrow

Invitation

1980年代は多くのアイドル歌手が活躍した時代で、その先鞭をきったのが1980年デビュー組でした。田原俊彦さんはその後のジャニーズ事務所の隆盛のパイオニアとなりましたし、松田聖子さんは、後に続く女性アイドル歌手の目標となっていきました。その2人に次ぐ存在だったのが河合奈保子さんでした。今になってYoutubeで奈保子さんの動画を見ていると、当時見ていた時の印象とは違って、優れた歌唱力と表現力を持っていたんだなあと思います。

「Invitation」という曲は、1982年12月1日に彼女の11枚目のシングルとして発売されました。1980年に「大きな森の小さなお家」でデビューして、「スマイル・フォー・ミー」や「夏のヒロイン」のヒット曲を出して、アイドル歌手としての人気を高めた河合さんが、アーティスト路線の曲をということで竹内まりやさんに作品を依頼し、1982年9月に「けんかをやめて」を発売し、「Invitation」はそれに続く竹内まりやさんの作詞・作曲の作品でした。竹内さんはテレビで「スマイル・フォー・ミー」を歌う河合さんを見て、「彼女はアイドルの曲じゃない、しっとりした曲も歌えるだろう」と思い、「けんかをやめて」の原曲を作っていたところ、河合さん側から作品提供の依頼があり、まさに相思相愛だったようです。「奈保子ちゃんは女の子の揺れる心を素直に歌えるけど、私が歌うとちょっとあざとい女になってしまう」と竹内さんは「けんかをやめて」のセルフカバーについて、半ば自虐的に語っていましたが、奈保子さんの歌唱法は素直に気持ちを伝えていく歌い方で、無理がないんですね。筒美京平さんは竹内さんに「今度の「けんかをやめて」はいい曲だよね」と感想を言われたそうですが、竹内さんが元々描いていた河合さんへのイメージと、河合さんがそのテーマを上手くこなしたのが作品として昇華されたのかなと思います。そして、「Invitation」はとても竹内まりやさんがセルフカバーできない、河合奈保子さんの歌の世界を一歩深めた作品だろうと思います。まだ恋をしたばかりの男子と女子のハニカミな姿を描いています。「Invitation」は男の子が「招いた人はまだ私だけだと はにかむようなまなざしで 打ち明けられた」という歌詞に出てきます。ある意味河合さんは当時、純真なアイドル歌手を演じられていたわけで、そういう彼女から着想された作品だったなあと思います。編曲は大村雅朗さんが作られましたが、サウンドは平板なんですけど、アレンジをオーソドックスに盛り上げているのが、結果としてキラキラとした作品になったという印象です。他の曲を聴いても思いますが、河合奈保子さんは難しい曲もさらっと歌ってしまっていたんだなと思います。それゆえに目立たなかったのかもしれないと思うと、惜しいなあと思います。


Invitation 河合奈保子

milk tea

DAM★ともでぼくがお気に入りにしているアーティストの福山雅治さん。でも最近は以前ほど福山さんの曲を歌ってないかもと思って、最近練習し始めたのが「milk tea」という曲です。

この作品は2006年5月24日に福山さんの21枚目のシングルとして発売されました。作詞・作曲は福山さんですが、編曲は福山さんと井上鑑さんが共同で行っています。今や福山さんの楽曲やコンサートのプロデュースには欠かせない井上さんですが、井上さんは元々大瀧詠一さんやピンク・レディーなどの作品でキーボーディストとして活動を始めた方です。1981年に寺尾聰さんの「ルビーの指環」で日本レコード大賞編曲賞を受賞して有名になりました。福山さんとの出会いは、ギタリストの吉川忠英さんの紹介で、福山さんのレコーディングに初めて参加したのがきっかけで、どうやらその曲は2000年に発売された「桜坂」の初回限定盤で収録された「春夏秋冬」(泉谷しげるさんの作品のカバー)で、吉川さんが編曲、井上さんがストリングスアレンジを行っています。その後、井上さんは福山さんのシングルの中でカップリング曲の1曲を編曲するようになっていましたが、この「milk tea」は、カップリング曲の「美しき花」「LOVE TRAIN」「あの夏も 海も 空も」も含め全4曲がすべて井上さんの編曲となった作品で、現在の福山雅治さんのサウンドの基盤ともなっていると思います。

井上さんも福山さんの武器は「あの低い声質であり、楽器のようであると思う」と言われてました。また、福山さんにコンサートでもギターを演奏する場面を増やすように提言をされています。ぼくが福山さんの曲を歌うのは、音域が低音なこともあって歌いやすいというのもありますが、やっぱり歌っていると心が落ち着くというか、特にヒトカラでまったりと歌うには適していると思います。

「milk tea」は女性目線の歌詞なんですけど、言葉の一節に福山さんの恋愛の理想が垣間見られる感じられるのがちょっと面白いです。「同じバス停 雨の坂道 一つの傘で 貰ったミルクティ 教えてくれた歌 そのすべてが暖かくて」みたいに、今みたいな寒い冬の屋外で、誰かと一緒に暖かいものを食べたり飲んだりすると、心も温まるって感じはありますよね。ぼくはミルクティよりも、缶コーヒーですね。

福山さんの曲はその声質を活かしてるんだと思いますけど、フレーズの1音目は割と低い音から入っていくんです。久しぶりに歌ってみると、その1音目が微妙にずれてしまったりして、そういう微妙な音階が、福山さんの曲の意外な難しさだったりします。


福山雅治 - milk tea 【冬の大感謝祭 其の十四】

そして、神戸

1月になると思い出すのが、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災です。当時はインターネットも普及していなくて、その日の朝から東京では「大阪と連絡がつかない」状況が続き、お昼のNHKのニュースで、高速道路が倒壊している映像を目にして、初めて大惨事が起きたことを知りました。そしてその数日後に火災の延焼が相次ぎ、神戸の長田地区をはじめ、まるで戦後の焼け野原のような光景をテレビで見て驚愕しました。ぼくも当時、震災の応援ということで神戸に赴き、青いビニールシートが貼ってある屋根の家々の間を歩き、鉄道も寸断されてましたので阪急とJRを乗り継いで動いたことを今でもよく覚えています。神戸の中心街はそれから半年ぐらいで賑わいは取り戻しましたが、今までの町を失った心の痛みはなかなか解消されなかったのではないかと思います。そういう神戸の人たちが、心の応援歌として励みにしていたのが、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」という曲でした。

「そして、神戸」は彼らの14枚目のシングルとして、1972年11月15日に発売されました。作詞は千家和也さん、作曲は浜圭介さん、編曲は森岡賢一郎さんです。オリコン最高6位となるヒット曲となり、第6回日本有線大賞を受賞すると共に、第15回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。内山田洋とクール・ファイブは昭和44年から昭和57年まで通算11回、NHK紅白歌合戦に出場していますが、昭和47年は出場しておらず、クール・ファイブとして紅白で「そして、神戸」を歌ったことはありませんでした。

また、千家さんと浜さんはこの当時作詞家・作曲家として頭角を現わしてきた頃で、2人のコンビによる大ヒット曲としては「そして、神戸」の他に、奥村チヨさんの「終着駅」、三善英史さんの「雨」がありました。千家さんは第15回日本レコード大賞では「終着駅」で作詞賞を受賞しています。

さて、1995年の阪神・淡路大震災後、ソロ歌手となっていた前川清さんは「そして、神戸」の歌詞の冒頭「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我身が みじめになるだけ」というのが気になって、この曲を歌う気にはならなかったそうです。ところが、神戸の知人から結婚式でこの曲を歌って欲しいと言われ、本当にいいのかと思いながら歌ったそうです。ところが言葉とは面白いもので、神戸の人たちは冒頭の「泣いてどうなるのか」は自分たちへの励ましだと受け取ったんですね。「そしてひとつが終り そしてひとつが生まれ 夢の続き 見せてくれる 相手捜すのよ」という歌詞も、明日への希望だと思ったわけです。元々は男と女の恋模様、別れうただったわけで、まさか神戸の応援歌になろうとは、作詞を書いた千家さんも、歌っていた前川さんも、予想だにしなかったことだったと思います。1995年の紅白歌合戦では神戸市民からのリクエストが多かったことを考慮して、「特別企画」として、前川さんは「そして、神戸」をいつものように、直立不動でマイクを離しながら、堂々と歌われました。でも、今までとは違う緊張感があったそうです。前川さんの歌唱はこの年の紅白歌合戦の瞬間最高視聴率を取りました。あれから23年経ちましたが、今を生きる日本人が大震災を経験して、その後の震災にも活かされていることが多々あったように思います。


前川清 そして神戸

 

時の過ぎゆくままに

日本の歌謡史の中で、男性歌手のエンターテイメントの幅を大きく広げたパイオニアの1人である沢田研二さん。沢田さんは男性歌手としてセクシーさや奇抜なファッションを採り入れて、魅せるパフォーマンスを打ち出していき、日本におけるポップス・ロックの地位を向上させていった功績は大きいと思います。そして、その「沢田研二」というキャラクターに惚れこんでいたのが、日本の歌謡史に残る名作詞家の阿久悠さんでした。沢田研二さんと阿久悠さんが出会うきっかけとなったのが「時の過ぎゆくままに」という作品でした。

この作品が生まれたきっかけは、当時TBSのプロデューサーであった久世光彦さんが「沢田研二を主演にしたドラマを作りたい」と考えた中で、阿久悠さんを企画づくりに誘ったことから始まりました。「こういうドラマ発でもない限り、沢田研二との出会いも考え難かった。もしもこの機会を逃していたら、その後の膨大なヒット曲も出なかったかもしれない。そう思うと得難いチャンスであった」と阿久さんは後に述懐されています。

久世さんも阿久さんも、沢田研二の美しさは「どこかけだるさを秘めた頽廃的な美しさ」であるという点で一致し、「色っぽい歌を作りたいね」となったそうで、その時に題名は「時の過ぎゆくままに」と決まりました。この元ネタは1942年にアメリカで公開された映画「カサブランカ」の主題歌「As Time Goes By」だったそうです。そして、阿久さんが書いた詞に、当時の人気作曲家であった大野克夫、井上尭之、井上大輔加瀬邦彦荒木一郎、都倉俊一の6人に曲を作らせ、久世さんが大野さんの曲を選んだそうです。「時の過ぎゆくままに」は1975年8月21日に発売され、沢田さんにとっては、通算3作目のオリコン1位を獲得しましたが、その後の沢田さんの代表曲の1つとなりました。ぼくもこの曲は子供の頃から何となく覚えた曲で、3分ぐらいの短い曲なんですけど、ジュリーの滲み出るカッコよさは当時でも感じられました。カッコよく色っぽく歌うために参考になっているのは、ぼくにとってもジュリーなんだろうなあと思いますし、今の50代・40代の男性アーティストが子供の頃から影響を受けているのもジュリーだと思います。「時の過ぎゆくままに」は、まだ奇抜なファッションを採り入れる前の、「けだるくて頽廃的な美しさ」のジュリーの良さが感じられます。そして、忘れてはならないのは、沢田研二さんは歌詞をしっかりと伝えられる、歌唱力の優れた歌手であるということで、その上での魅せるパフォーマンスであるということです。


沢田研二 時の過ぎゆくままに

いい日旅立ち

日本の歌謡史上のトップスターの1人であった山口百恵さん。1980年に芸能界を引退後37年を経た今でも、百恵さんの作品は多くの人たちに歌われています。数多くのヒット曲の中で、今の時期になると思い出すのが「いい日旅立ち」という曲です。

この作品は1978年11月21日に、山口百恵さんの24枚目のシングルとして発売されました。作詞・作曲は谷村新司さん、編曲は川口真さんが作られました。「いい日旅立ち」は、当時の国鉄の「DISCOVER JAPAN」キャンペーンのキャッチコピーともなり、この作品はそのキャンペーンソングともなりました。この発売当時は1978年のレコード大賞を始めとする各賞レースの真っ最中でありました。百恵さんの場合は「プレイバックPart2」を歌っていましたし、この年の紅白歌合戦では19才(紅白史上最年少)での紅組トリでも「プレイバックPart2」を歌いました。だから、「いい日旅立ち」は当初は目立たなかったですが、歌詞も曲もじわじわと来るいい作品でしたから、年が明けて1979年に入ってから、ザ・ベストテンで1位になりました。国鉄のキャンペーンもこの作品の大ヒットに預かり大成功となり、1984年1月まで続いたそうです。「いい日旅立ち」のBGMは今でも新幹線に乗っていると聴くことがあります。ちなみに、「いい日旅立ち」キャンペーンを継承したのが、1984年2月からの「エキゾチックジャパン」キャンペーンです。そのキャンペーンソングは…郷ひろみさんの「2億4千万の瞳ーエキゾチック・ジャパンー」です。

さて「いい日旅立ち」は、歌詞を読むと、その情景が思い起こされるのが良くて、どの世代の方が読んでも、それぞれにその歌詞を受け止められるのがいいと思います。サビの歌詞「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」は、その後ネットワーク社会の世の中になった今では、ますます意味のある歌詞になったなあと思っています。もはや、「世界のどこかに」かもしれませんけど。主人公であるそれぞれの人が、「夕焼けをさがしに 母の背中で聞いた歌を道連れに」、「羊雲をさがしに 父が教えてくれた歌を道連れに」、「幸福(しあわせ)をさがしに 子供の頃に歌った歌を道連れに」、いい日旅立ちを続けているわけです。ぼくもいろいろな歌を傍らに生きてますし、DAM★ともを通じて、直接会うことはできませんが、多くのユーザーさんたちの歌声を聴いて、それを自分の糧にできればいいと思っています。


山口百恵「いい日旅立ち」[Digital refine ]【HD】

ある女の詩

日本の歌謡史上のトップスターの1人である美空ひばりさん。この年末年始の番組では、美空ひばりさんが1974年~1977年の大晦日に新宿コマ劇場で行ったショーの映像を放送していました。1972年まで紅白歌合戦のトリを10年連続(大トリを6年連続)で務め、歌謡界の女王であった美空さんは1973年、実弟の不祥事を契機として、紅白歌合戦への出場を「辞退」という形を取りましたが、美空さん側の受け止め方は「NHKから追い出された」という思いだったかもしれません。NHKに代わって、1973年の大晦日をひばりさんのために取り計らったのが、当時の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)で、「美空ひばりワンマンショー」を生放送しました。そして、1974年から1977年までは、新宿コマ劇場での美空ひばりショーを公開生放送しました。当時視聴率80%前後を誇っていた紅白歌合戦に真っ向勝負するのは、美空さん側の気迫が感じられるわけで、当時の映像を見ても、歌唱力はパワフルであり変幻自在さも感じます。

美空ひばりさんの映像を見て思ったのは、この人は歌手だけではなく「音楽総監督」なんだなということです。その作品が映えるように、半ば自分が足でタクトを振っているかのように演奏をちょうどいいテンポに誘導しているのかなと思う場面もありました。聴力が非常に優れていたのか、演奏の細かい間違いすらも気付いてしまっているようでした。美空さんご自身の歌い方は、歌舞伎の見得を切る所作ではありませんが、最後の一節で締めて見せる手法は好みだったようです。「ある女の詩」という曲もそういう1曲だと思いますが、AメローBメロは助走にすぎず、Cメロの最後の一節の「私の あなたでした」で、美空さんがド迫力で絶叫するんです。どれだけ色々な歌い方ができるんだろうかと感心しました。美空さんはこの曲を自身のペースでさらっと歌っていますが、今の演歌歌手がこの曲を歌っているのを聴いても、美空さんの域にはとても達していないんですね。それは技術の差というよりも、細かいところまで音程に気をつけて歌えるかどうかというところにあるように思います。


美空ひばり 「ある女の詩」