DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

迷い道

ニューミュージックと呼ばれる音楽が浸透し始めたのが1970年代ですが、そのピークに達した1978年(昭和53年)に大ヒットしたのが、渡辺真知子さんの「迷い道」でした。

「迷い道」は1977年11月1日に渡辺さんのデビュー・シングルとして発売されました。渡辺さんが作詞・作曲、編曲は船山基紀さんで、船山さんはその後も渡辺さんの一連のヒット作品の編曲を手掛けました。渡辺さんはシンガー・ソング・ライターだったんですが、他のシンガー・ソング・ライターがテレビ出演を拒否するなかでは、珍しくテレビ出演をしていきました。そのせいなのか、歌謡曲の歌手とか、当時あまりにも売れていたのでアイドル歌手のような扱いを受けることもあったようです。とはいえ、渡辺さんの持ち味はパワフルでありながら、繊細さも感じられるボーカル力にあります。

2枚目のシングル「かもめが翔んだ日」が非常にドラマチックな作品だったせいもあり、「迷い道」はやや地味な印象を受けてしまいますが、歌詞の内容は別れてしまった彼との再会を待ちわびる女性の揺れ動く心を絶妙に描いています。「まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって」という歌詞が1番と3番にあり、強気でいた自分への懺悔がこめられていて、「ひとつ曲り角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね」という歌詞で、ボタンの掛け違いからすれ違ってしまった今を後悔しています。そういう歌詞なんですが、渡辺さんのボーカルは湿っぽさを消し去って、生きていく強さを感じさせてくれます。

1978年はピンク・レディーのブームが頂点に達した年であったと同時に、ニューミュージックも多くのアーティストが活躍しピークを迎えた年でした。1978年の紅白歌合戦でNHKは「ニューミュージック・コーナー」という異例の枠を設けて、紅組は庄野真代さん、サーカス、渡辺真知子さん、白組はツイスト、さとう宗幸さん、原田真二さんの初出場6組が一気に歌唱しました。

当時はいわゆるニューミュージックの大物歌手が紅白歌合戦に出場することはなく、2002年の紅白歌合戦中島みゆきさんが「地上の星」で黒部ダムからの中継で初出場するまで待つことになります。


迷い道

SCANDALOUS BLUE

シンセサイザーを使ったJ-POPの楽曲は、1980年代後半に登場したTM NETWORKから徐々に浸透し始めてきました。TM NETWORKに続いて1990年代に活躍したのが、キーボードの浅倉大介さんとボーカルの貴水博之さんによるユニットのaccessでした。

浅倉さんはデビュー前、ヤマハシンセサイザー・ミュージックコンピュータ部門で働きながら、TM NETWORKのサポートメンバーとして参加していました。1992年7月、ソロアルバムの浅倉さんのライブに、ゲストボーカルとして貴水さんとジョイントしたのがきっかけで、accessが結成されました。ボーカルの貴水さんはハイトーンボイスに加えてイケメンなビジュアル、そして当時の浅倉さんも美少年を漂わせる雰囲気でした。だからなのか、accessの売り出し方が、今でいうBL(ボーイズラブ)を前面に押し出すようなパフォーマンスで、徐々に人気を高めていきました。

1994年10月19日に発売された「SCANDALOUS BLUE」は、accessの三部作の1つで、ステージで貴水さんと浅倉さんがキスのパフォーマンスをするという、当時としてはぶっとんだ内容でした。ただaccessは取材でも、「別に同性愛をテーマにしたわけではなく、純粋な感情をテーマにしている」と話しています。1994年の紅白歌合戦にトップバッターとして出場し、「SCANDALOUS BLUE」を披露しましたが、貴水さんのボーカルはしっかりとNHKホールの客席に届いていたし、浅倉さんのキーボードの演奏も手堅く決まっていましたので、サウンドとしてもパフォーマンスとしてもよくできていたと思います。当時時代を先取りしすぎてしまったからなのか、翌年の1995年に活動停止してしまったのが惜しく感じられます。

この作品の作詞は朝霧遥さん、つまり井上秋緒さん、作曲・編曲は浅倉さんですが、このコンビは後に、T.M.Revolutionさんのヒット作品を次々と輩出していくことになります。


Access - Scandalous Blue (Kouhaku '95)

帰らざる日のために

DAM★ともを始めてから色々なジャンルの歌を探すようになりました。自分の中でおぼろげに一節を覚えていた歌も、インターネットで検索して、ようやくその作品がわかったものもあります。いずみたくシンガーズの「帰らざる日のために」もそんな1曲でした。

この作品は1974年に放送された「われら青春!」の主題歌として、作詞は山川啓介さん、作曲はいずみたくさんによって作られました。いずみたくさんは当時の日本テレビで放送されていた「青春学園ドラマ」の音楽に関わっていて、1972年に放送された「飛び出せ青春」の主題歌となった、青い三角定規の「太陽がくれた季節」も作詞が山川さん、作曲がいずみさんによるものです。当時のドラマは主題歌とは別に挿入歌も作っていて、「われら青春!」では主演の中村雅俊さんが歌った「ふれあい」(この作品も作詞は山川さん、作曲はいずみさんです。)はオリコンで10週連続1位となるミリオンセラーとなりました。

「太陽がくれた季節」と「ふれあい」に挟まれて、やや印象の薄い「帰らざる日のために」ですが、当時60万枚の大ヒットとなりました。この作品を歌ったのはいずみたくシンガーズというグループなんですが、いずみさんは1972年頃からミュージカルの制作とあわせて、ミュージカル俳優の養成を始めていて、青い三角定規に続くグループの結成を目論んでいたようで、男女混合のグループを結成したようです。この作品を聴いた印象としては歌っているメンバーの発声がとても聴きやすいことと、男女混合のコーラスが、いわゆる合唱のコーラスではなく、ミュージカルの萌芽のような感じがしました。コーラスとしては当然ハーモニーができていて、加えて各人の声が混ざりあうことによる化学反応も醸し出しています。青春がテーマの作品なので、群像劇のようなステージを標榜していたのかなとも思いました。

歌詞もいい内容だと思います。「愛する人がいるなら 求めるものがあるなら なんにも怖くはないさ そいつが青春 涙は心の汗だ たっぷり流してみようよ 二度と戻らない 今日のために」と今を生きていこうというメッセージが強く込められています。

いい作品は今もしっかりと受け継がれていて、いずみさんが立ち上げたミュージカル劇団は現在、ミュージカルカンパニーイッツフォーリーズとして続いています。彼らがこの作品をカバーしているのを聴くと、いずみさんの精神のDNAは生き続けていたんだなというのを感じました。

作詞家の阿久悠さんが1970年代について「青春という言葉がまだあった」と評されていました。確かに、夕日に向かって走る青春学園ドラマのような、心と心が激しくぶつかり合う場面は少なくなったのかもしれませんが、そんな表層とは別に、日本人の心の底流は意外に変わってないような気もします。


●帰らざる日のために~いずみたくシンガーズ


いずみたく作曲「帰らざる日のために」イッツフォーリーズ

そよかぜスニーカー

 

NHKの子供番組「おかあさんといっしょ」で、4月から12代目うたのお兄さんになったのが花田ゆういちろう(花田雄一郎)さんです。「ゆういちろうお兄さん」のスタートに合わせて、4月の月歌として放送されたのが「そよかぜスニーカー」という作品です。

作詞は井出隆夫さん、つまり作詞家の山川啓介さんです。「井出隆夫名義」で子供向けの作品を多く提供されています。作曲は林アキラさんで、林さんはかつてうたのお兄さんとして活躍され、現在はミュージカルの俳優の他に、作曲家として楽曲を提供されています。

歌詞の始まりが「そよかぜ スニーカー すあしに はいたら きみを さそいに かけてくよ あおぞらをつれて」と、石田純一さんの歌?と思えるほどの凄いツカミから入ってきましたが、そんな邪推を吹き飛ばしてくれるような、爽やかな前向きになれる作品でした。林さんがご自身のブログで書かれていたように、「さわやかなお日さまに誘われて、思わず外に飛び出したくなるような曲」だとぼくも思いました。

歌の映像は、うたのお兄さんとお姉さん、体操のお兄さんとお姉さんが4人で、どこかのアリーナのような場所でロケをしているので、何だかカラオケのPVみたいなんですが、それにしても新入りのゆういちろうお兄さん、27才とは思えぬほど、余りにも爽やか過ぎてまぶしすぎるほどの雰囲気を出しています。お母さんさんたちのブログでは「妖精みたい…」というのもありました。もはやジャニーズのアイドルにはもう出せない爽やかオーラを出せるゆういちろうお兄さん、この人はただものではないなと感じました。

調べてみたら、国立音楽大学の声楽科を卒業後、文学座附属演劇研究所に入り(ここに合格するのも結構難しいそうです。)、ミュージカルや舞台に出演されてきました。おそらく今回のうたのお兄さんの話が決まったこともあるのか、文学座附属演劇研究所を今年の1月に卒業されました。

ゆういちろうお兄さんの歌声を聴くと、癖がなくて、はきはきと歌っているので、はっきりと歌詞が聞き取れます。それと低音に安定感があるので、すごく聴きやすいと思いました。

DAM★ともでもし歌えるようになったら、公開してみたい作品です。

 

 

ハネウマライダー

5月に入ると木々の緑も色濃くなり、社会人の服装も「クールビズ」が始まりました。カラオケの選曲も春の曲から夏の曲へと移っていく時期でもあります。それで何となく思い出したのが、ポルノグラフィテイの「ハネウマライダー」です。

この作品は2006年6月28日に彼らの20枚目のシングルとして発売されました。作詞は新藤晴一さん、作曲はak.hommaこと本間昭光さんです。当時、ポカリスエットのCMにも使われました。歌詞の主人公は、オンボロに見えるmotorbikeと新たな旅立ちを共にして、遠くへと走っていきます。必死に走っていたら、突然目の前に現れた女性。彼女を後ろに乗せて、バイクはBig Machineとなって先へ進みます。錆ついたBodyを塗りなおして、海が見たいと彼女に言われて海を目指していきます。「大切なものを乗せて走りたいなら、生まれ変わっていかなければねえ。」とか「僕たちは、自分の時間を動かす歯車を持っていて、それは一人でいるなら勝手な速度で回る。他の誰かと、例えば君と、触れ合った瞬間に、歯車が噛み合って時間を刻む。」と説明的な歌詞なのでわかいやすいんですが、人生は他人と出会って、また新たな人生を生み出すことができるというメッセージが強く込められているように感じます。サウンドはバイクの疾走感とおそらく春から夏へのキラキラした季節感を絡ませながら、歌詞に合った楽曲を作っています。色々な音楽が混ざっているような感じなんですね。筒美京平さんがあるインタビューの中で、ポルノグラフィティについて「どうやったら売れるかをすばやく察知していて、自分たちでヒット商品を作っている」と評していて、それは「職業作家としての使命はヒット作品を作ること」と明言している筒美さんから見て、たぶん本間さんへの褒め言葉なんだろうなと思います。本間さんも、1999年から2010年頃まではポルノグラフィテイの作曲・編曲・プロデュースを手がけていましたが、2009年頃からはいきものがかりの編曲・プロデュースを手がけており、ビジネスとしては時流に乗って行動されていると思います。

ぼくも久しぶりに「ハネウマライダー」をDAM★ともで歌ってきましたが、声が少し錆ついてたので、パワーを付けないといけないなと感じました。アキヒトさんの肺活量はもの凄いですから、ポルノグラフィティの作品を歌うときは、最後までフルで歌える体力が必要なんですよね。


ポルノグラフィティがやってきた ハネウマライダー

 

 

もし翼があったなら

最近テレビを見ていて気になる曲がありました。BS朝日で放送されている「五木寛之の百寺巡礼」のエンディングで由紀さおりさんが歌っている「もし翼があったなら」という歌でした。

「この世界の どこかにある やさしさに 真実に 出会ってみたくて この世界に きっと きっといる 友達に 恋人に めぐりあう そのために」という歌詞は、山口百恵さんの「いい日旅立ち」を連想させます。作詞は五木寛之さんなんですが、そもそもこの「五木寛之の百寺巡礼」という番組は2003年に放送され、その当時五木さんは百の寺を巡ったそうです。その番組が2016年10月から13年ぶりに放送されることになったということです。

「もし翼があったなら」を調べていったら、最初に歌ったのは桑名正博さんだと知り驚きました。そして、この作品を歌う桑名さんの歌声を聴き、こんな歌い方ができる歌手だったのかと知り、その暖かみのあふれる歌に感動しました。「セクシャルバイオレット№1」だけではない、彼の音楽の深さがありました。

そしてもう1人、「もし翼があったなら」を歌っていたのは、演歌歌手の松原健之さんでした。松原さんはインディーズ時代、前進座の舞台「旅の終りに」で歌を歌う役のオーディションで、原作・脚本を務める五木さんの目に止まりました。それがきっかけで歌手デビューとなり、そのデビュー曲「金沢望郷歌」のカップリングとして、「もし翼があったなら」を歌いました。彼は「クリスタルボイス」の評判のとおり、透明感のある綺麗な歌声です。ぼくが言うのも生意気なんですけど、松原さんが歌番組で色々な歌を歌っているのを聴いていると、演歌ではなくポップス歌手になった方がいいかなと思います。野口五郎さんの作品も合うと思いますし、CHEMISTRYの作品も合うんじゃないかなと思います。痩せれば生田斗真さんに似てなくもない顔立ちだし、いいものをいくつも持っている歌手だと思います。

桑名さんの歌声、松原さんの歌声を聴き比べてみていただければと思います。


もし翼があったなら


松原健之  もし翼があったなら

魅せられて

日本の歌謡曲の中で、最も華麗でゴージャスな歌謡曲として挙げられるのは、ジュディ・オングさんの「魅せられて」ではないかと思います。

この作品は1979年2月25日にジュディさんの28枚目のシングルとして発売されました。作詞は阿木燿子さん、作曲と編曲は筒美京平さん、プロデュースはCBSソニーの音楽プロデューサーであった酒井政利さんが行いました。

「魅せられて」は総合的なプロジェクトの一環として生まれました。作家の池田真寿夫さんが小説「エーゲ海に捧ぐ」を発表し、芥川賞を受賞、間もなく映画化の話となり、配給元の東宝が映画のヒットを目指すに当たり「エーゲ海ブームを作れないか」と模索します。その中で下着メーカーのワコールが映画のシーンをCMに採用することとなります。併せてCMソングをということで作られたのが「魅せられて」でした。

作詞が先行して作られたようで、阿木さんは「エーゲ海に捧ぐ」の内容を意識してか、やや官能的でありながら、女は男を守る強く深い存在という母性愛のような内容を描きました。「Wind is blowing from the Aegean 女は海」というサビの歌詞に端的に表現されています。(the Aegean はエーゲ海です。長年Asianだと誤解していました。)

作曲に当たって、筒美さんはゴージャスなサウンドを念頭に置いて作曲と編曲をされたようです。その中で、おそらく意識したのは当時日本でも人気のあったポール・モーリアのサウンドであっただろうと思います。ポール・モーリアは1971年に「エーゲ海の真珠」を日本でヒットさせていました。


エーゲ海の真珠 ポール・モーリア Paul Mauriat Penelope

酒井さんが作詞に阿木さん、作曲に筒美さんを起用したのも上手かったですが、歌手にジュディ・オングさんを起用したというのが大当りでした。ジュディさんの声質が酒井さんは気に入っていたようですが、女性の心をやや舌足らずのような歌い方をして表現できる実力や、英語を流暢に発音できる語学力は、「魅せられて」の魅力を引き出すのには十分でした。

そして、何よりも印象的だったのが、ジュディさんの衣装でした。扇状に広がる白のドレスは、白いエーゲ海のイメージを連想させるだけでなく、まるでカーテンやシーツのようで、男女の恋を連想させるものであり、そして歌手の衣装がゴージャスになるきっかけを作ったのはこのドレスであったと思います。

1979年、「魅せられて」は日本レコード大賞を受賞し、ジュディさんは紅白歌合戦に初出場し、華麗なステージを披露しました。そして、この紅白歌合戦で同じく初出場したのが、デビュー以来苦節15年の末、「おもいで酒」が大ヒットした小林幸子さんでした。小林さんがその後、紅白出場を重ねていく中で次第に衣装に羽がつくようになり、歌いながら上空を飛ぶようになり、セットのようなゴージャスな衣装へと発展していった、その原点はジュディさんの白いドレスであったと思います。


ジュディ・オング ♪魅せられて