DAM★とも&アウフヘーベン

DAM★ともで公開した曲について感じたことを書いていきます。

もし翼があったなら

最近テレビを見ていて気になる曲がありました。BS朝日で放送されている「五木寛之の百寺巡礼」のエンディングで由紀さおりさんが歌っている「もし翼があったなら」という歌でした。

「この世界の どこかにある やさしさに 真実に 出会ってみたくて この世界に きっと きっといる 友達に 恋人に めぐりあう そのために」という歌詞は、山口百恵さんの「いい日旅立ち」を連想させます。作詞は五木寛之さんなんですが、そもそもこの「五木寛之の百寺巡礼」という番組は2003年に放送され、その当時五木さんは百の寺を巡ったそうです。その番組が2016年10月から13年ぶりに放送されることになったということです。

「もし翼があったなら」を調べていったら、最初に歌ったのは桑名正博さんだと知り驚きました。そして、この作品を歌う桑名さんの歌声を聴き、こんな歌い方ができる歌手だったのかと知り、その暖かみのあふれる歌に感動しました。「セクシャルバイオレット№1」だけではない、彼の音楽の深さがありました。

そしてもう1人、「もし翼があったなら」を歌っていたのは、演歌歌手の松原健之さんでした。松原さんはインディーズ時代、前進座の舞台「旅の終りに」で歌を歌う役のオーディションで、原作・脚本を務める五木さんの目に止まりました。それがきっかけで歌手デビューとなり、そのデビュー曲「金沢望郷歌」のカップリングとして、「もし翼があったなら」を歌いました。彼は「クリスタルボイス」の評判のとおり、透明感のある綺麗な歌声です。ぼくが言うのも生意気なんですけど、松原さんが歌番組で色々な歌を歌っているのを聴いていると、演歌ではなくポップス歌手になった方がいいかなと思います。野口五郎さんの作品も合うと思いますし、CHEMISTRYの作品も合うんじゃないかなと思います。痩せれば生田斗真さんに似てなくもない顔立ちだし、いいものをいくつも持っている歌手だと思います。

桑名さんの歌声、松原さんの歌声を聴き比べてみていただければと思います。


もし翼があったなら


松原健之  もし翼があったなら

魅せられて

日本の歌謡曲の中で、最も華麗でゴージャスな歌謡曲として挙げられるのは、ジュディ・オングさんの「魅せられて」ではないかと思います。

この作品は1979年2月25日にジュディさんの28枚目のシングルとして発売されました。作詞は阿木燿子さん、作曲と編曲は筒美京平さん、プロデュースはCBSソニーの音楽プロデューサーであった酒井政利さんが行いました。

「魅せられて」は総合的なプロジェクトの一環として生まれました。作家の池田真寿夫さんが小説「エーゲ海に捧ぐ」を発表し、芥川賞を受賞、間もなく映画化の話となり、配給元の東宝が映画のヒットを目指すに当たり「エーゲ海ブームを作れないか」と模索します。その中で下着メーカーのワコールが映画のシーンをCMに採用することとなります。併せてCMソングをということで作られたのが「魅せられて」でした。

作詞が先行して作られたようで、阿木さんは「エーゲ海に捧ぐ」の内容を意識してか、やや官能的でありながら、女は男を守る強く深い存在という母性愛のような内容を描きました。「Wind is blowing from the Aegean 女は海」というサビの歌詞に端的に表現されています。(the Aegean はエーゲ海です。長年Asianだと誤解していました。)

作曲に当たって、筒美さんはゴージャスなサウンドを念頭に置いて作曲と編曲をされたようです。その中で、おそらく意識したのは当時日本でも人気のあったポール・モーリアのサウンドであっただろうと思います。ポール・モーリアは1971年に「エーゲ海の真珠」を日本でヒットさせていました。


エーゲ海の真珠 ポール・モーリア Paul Mauriat Penelope

酒井さんが作詞に阿木さん、作曲に筒美さんを起用したのも上手かったですが、歌手にジュディ・オングさんを起用したというのが大当りでした。ジュディさんの声質が酒井さんは気に入っていたようですが、女性の心をやや舌足らずのような歌い方をして表現できる実力や、英語を流暢に発音できる語学力は、「魅せられて」の魅力を引き出すのには十分でした。

そして、何よりも印象的だったのが、ジュディさんの衣装でした。扇状に広がる白のドレスは、白いエーゲ海のイメージを連想させるだけでなく、まるでカーテンやシーツのようで、男女の恋を連想させるものであり、そして歌手の衣装がゴージャスになるきっかけを作ったのはこのドレスであったと思います。

1979年、「魅せられて」は日本レコード大賞を受賞し、ジュディさんは紅白歌合戦に初出場し、華麗なステージを披露しました。そして、この紅白歌合戦で同じく初出場したのが、デビュー以来苦節15年の末、「おもいで酒」が大ヒットした小林幸子さんでした。小林さんがその後、紅白出場を重ねていく中で次第に衣装に羽がつくようになり、歌いながら上空を飛ぶようになり、セットのようなゴージャスな衣装へと発展していった、その原点はジュディさんの白いドレスであったと思います。


ジュディ・オング ♪魅せられて

プレイバックPart2

1970年代後半を象徴するスーパー・アイドルの筆頭がピンク・レディーであれば、もう1人のスーパー・アイドルは山口百恵さんです。

1978年は日本のポップスにおいてターニング・ポイントとなった年でした。ピンク・レディーは1976年のデビュー以来の怒涛のブレイクによって、発売するシングルがすべてミリオン・セラーを記録し、「UFO」で女性アイドル歌手として初めて日本レコード大賞を受賞しました。また、1978年の紅白歌合戦は紅組・白組のトリをいずれもポップスの歌手が務めるという、紅白歌合戦史上初めてのことが起きました。白組は1977年に「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞を受賞以来勢いのあった沢田研二さんが、「LOVE(抱きしめたい)」で初の大トリとなりました。そして、紅組のトリは、当時19才だった山口百恵さんが「プレイバックPart2」で初のトリとなりました。百恵さんの最年少トリの記録は現在も破られていません。

山口百恵さんのシングルは1976年から1980年の引退まで、主に作詞家の阿木燿子さん、作曲家の宇崎竜童さんのコンビによって提供されました。一連の作品の中で描かれた女性は、ちょっと意気がって、ちょっとツッパリなところもある、かっこよくて強い女性の姿だったように思います。それは当時の百恵さんの実年齢である10代後半のイメージとは全くかけ離れていて、20代~30代の女性のようでもありました。当時の百恵さんはテレビドラマや映画にも出演していましたが、よく評されていたのが、「1年にいくつも年を取るように感じる」というものでした。それは老けるという意味ではなくて、10代の女性が、大人の女性を見事に演じられているという褒め言葉でありました。

「プレイバックPart2」の女性は「真紅(まっか)なポルシェ」をかっ飛ばす、当時としてもぶっ飛んだ女性でした。「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」と男に啖呵を切ってしまう、何とも勇ましい女性を、百恵さんが見事に演じ切っていました。

百恵さんの楽曲を、阿木さんと宇崎さんに作ってもらおうと思ったのは、CBSソニーのスタッフではなく百恵さん自身のオファーだったそうです。1975年に宇崎さんがリーダーだったダウンタウン・ブギウギ・バンドが「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(作詞は阿木さん、作曲は宇崎さん)を大ヒットさせ、同年の紅白歌合戦に初出場しましたが、横須賀で育った百恵さんはどこから阿木さんと宇崎さんに、自分へのシンパシーを感じたのかわかりませんが、今後の歌手としての自分を作ってくれるだろうと見極めた先見の明があったと思います。この出会いがなければ、時代を象徴するスーパー・アイドルにはならなかったと思います。


山口百恵 ♪プレイバックPart2

ミ・アモーレ

1980年代後半、日本の歌謡界の「歌姫」であったのが中森明菜さんです。1985年3月8日に中森さんの11枚目のシングルとして発売されたのが「ミ・アモーレ」です。作詞は康珍化さん、作曲は松岡直也さんで、この作品で中森さんは1985年の日本レコード大賞を受賞しました。「リオの街はカーニバル」とあるように、歌詞の世界はリオのカーニバルの雑踏の中で、恋人を探し追い求める女性の姿を描いていて、それはカーニバルやサンバのイメージと相俟って、情熱的な恋の世界を連想させます。中森さんの低音の声質と冷静な歌い方が、逆に歌の世界を一層際立たせているように思います。

ご存知の方もいるように、元々は松岡さんの曲に付けられた康さんの歌詞は「赤い鳥逃げた」という題名でした。歌詞の内容は恋人が砂漠の国へ旅立ってしまい、それはかごの中にいた赤い鳥が逃げてしまったようだけど、いつか2人が一緒になる場所を探して欲しいという女性の気持ちを描いています。ただ、どうも歌詞の内容が内向きで、康さんは当時のワーナーパイオニア研音の人にダメ出しをくらって、「もっとインパクトの強い歌詞にして」とでも言われたんでしょうね。それで、砂漠の国から情熱の国へ転じて、「ミ・アモーレ」ができたんですね。その後「赤い鳥逃げた」は1985年5月1日に12インチシングルとして発売されました。

ところでこの「赤い鳥」って実際にあるのかなと思って調べてみたところ、「ベニスズメ」という赤い鳥を発見しました。もともとは熱帯に生息していた鳥ですが、寒い地域でも生息できる力があって、日本でも野生化して生息しているようです。

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さて、「ミ・アモーレ」の作曲者である松岡直也さんは、日本の代表的なラテン・ミュージシャンであり、ジャズ・ピアニストでありました。もともと作曲家のいずみたくさんの元で色々な音楽の仕事をされていたこともありますので、青い三角定規の「太陽がくれた季節」の編曲とか、人気報道番組「ニュースステーション」のテーマソングとか、作品も幅広く手掛けていました。本職のインストゥルメンタルでは、1982年に発表したアルバム「九月の風」がオリコン2位を記録する売上を残したことが挙げられます。そして、松岡さんのインストゥルメンタルによる「ミ・アモーレ」はその演奏の音質の高さもさることながら、どこか心地よい夏の日を思わせてくれる世界を奏でているように感じました。

こうして1つの曲から、3つの作品が生まれているわけです。


中森明菜 赤い鳥逃げた ~12インチ45回転EP~

 


中森明菜 - ミ・アモーレ-3-1

 


松岡直也  ミ・アモーレ

UFO

日本の歌謡史の中でスターになった人気アイドル歌手は多数いますが、時代を象徴するスーパー・アイドルと呼べる歌手となると、その筆頭に挙げられるのがピンク・レディーです。

ミーちゃんとケイちゃんは元々フォークのデュオを目指していたので、当時の人気オーディション番組「スター誕生」でも、ピーマンという女性フォークデュオの「部屋を出てください」という曲を歌って、スカウトされました。そんな2人を「ピンク・レディー」にしようと考えたのはビクターの飯田久彦さんです。フォークではなくディスコ・ポップスを歌い、そこに激しい振付が付き、着る衣装は露出の激しい派手な衣装です。よくミーちゃんとケイちゃんが「ピンク・レディーになることを受け入れ、見事に昇華したのが凄いと思います。

ピンク・レディーの作品はほとんど、作詞が阿久悠さん、作曲が都倉俊一さん、振付が土居甫さん、衣装が野口庸子さんが手掛け、いわゆるプロジェクト体制ができていました。最初は健康的なお色気路線で、中年の男性をターゲットにしていましたが、デビュー曲「ペッパー警部」の今までにないステージを見て飛びついたのは、意外にも若者や子供たちでした。当時大ヒットしたピンク・レディーの作品は、ある年代の人たちはおそらく今でも振付を体で覚えている人たちが多いと思います。曲を流せば自然と歌って自然と踊ってしまうんですね。

1977年12月5日に6枚目のシングルとして発売された「UFO」は195万枚のミリオン・セラーとなり、1978年の日本レコード大賞をアイドル歌手として初めて受賞しました。
異星人の男に恋してしまう歌詞の設定や、個性的な曲調や振付に衣装と、発売から40年が経った今でも斬新な作品であると思います。

ピンク・レディーは1981年に解散しますが、その後も不定期に再結成しており、1989年、1990年、2000年の紅白歌合戦に出場し、見事なステージを披露しました。当然年齢も重ねているのに、逆に人気絶頂の頃より歌も振付も進化し続けているのは、努力の賜物ではないかと思います。勿論、口パクではなくガチで踊りながら歌っているわけで、その凄さが感じられます。今の人気アイドル歌手は50代になったとき、今よりも上手く歌やダンスができるでしょうか。その人次第だと思います。


ピンク・レディー UFO (1978)


2011.05.08 Live UFO ピンクレディー

 

ス・ト・リ・ッ・パ・ー

現在のJ-POPや日本のロックシーンの基盤を作ったパイオニアのもう1人は、沢田研二さんであると思います。ジュリーの愛称で、ザ・タイガースグループサウンズ・ブームの中心にいて、熱狂的なファンを集めた時から「王子様キャラ」でずっときたわけです。ただし、沢田さんはアイドル歌手であったことはなく、ソロ歌手になってからも、ポップスの歌手として活動を続けてきたわけです。

勝手にしやがれ」の前後あたりから、男性のヴィジュアルに着目した衣装やパフォーマンスを採り入れるようになり、派手なイメージで、今までの歌手がやらなかったステージに挑戦してきました。これは、デヴィッド・ボウイDavid Bowie)やキッス(KISS)といったアーティストの影響を受けている感じもします。沢田さんのヴィジュアルなステージは、その後の日本のロック・バンドのパフォーマンスに影響を与えており、いわゆるヴィジュアル系バンドはほぼその影響を受けていると思います。

沢田さんの過激なステージがエスカレートしていったため、長年共にした井上尭之バンドは「ついていけない」として1980年に解散します。その後新たに沢田さんのバックバンドとなったのがEXOTICS(エキゾティクス)というバンドで、バンドリーダーが吉田建さんでした。この頃から沢田さんはシングルの作品でも自ら作曲したものを発表していきます。「渚のラブレター」を皮切りに、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」と続けて発表しましたが、楽曲もロック・テイストが強いものになっていきました。

沢田さんの音楽的な持論を目にしたことはありませんが、その行動を追ってみると、前例にとらわれず、新しいものに挑戦する試みに常に取り組まれていたように思います。当時若手のアーティストだった大沢誉志幸さんの楽曲提供を受けた「晴れのちBLUE BOY」のような斬新な作品にも意欲的に発表していったと思います。このあたりのロック・テイストがその後のバンド・ブームに広がって、その後のJ-POPのアーティストを多数生み出す根源になっていると思います。

1986年の紅白歌合戦で沢田さんは「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」を歌唱し、華麗なステージを披露しました。当時はまだまだ演歌が幅を利かせていた時代でしたが、沢田さんが1978年の紅白歌合戦でポップス歌手として初の大トリを取ってから、徐々にポップスも力をつけていった時代でもありました。ジュリーはやっぱりかっこいいです。沢田さんの新しいものに挑戦する精神を、今のアーティストも少しは持てばいいのにと思います。アイドルもポップスもロックも、いったんスターダムに乗ったら、予定調和で進んでいこうという感じで、超保守的で、今の安定した地位を守ろうという姿勢がありありな感じです。そういうのはサラリーマンや公務員がやってればいいことであって、夢を売る商売の人達は、もう少し無鉄砲で破天荒であってもいいように思います。


沢田研二 ストリッパー

 

傷だらけのローラ

現在のJ-POPや日本のロックの基盤を作ったパイオニアの1人は、西城秀樹さんだと思います。とりわけ、1974年8月25日に西城さんの10枚目のシングルとして発売された「傷だらけのローラ」は、日本の歌謡史を語る上でもターニングポイントとなった曲です。

西城さんは1972年にアイドル歌手としてデビューしますが、当時のライバルであった郷ひろみさんが可愛い男の子の路線、野口五郎さんが歌の上手い少年の路線というなか、西城さんは恵まれた体格と運動神経を生かした、絶唱型の歌唱路線を進むことになります。デビュー当初はなかなか売れず、郷さんや野口さんの後塵を拝していましたが、1~2年で彼らに追い付きます。当時は山本リンダさんのような激しいアクションを振りつけて歌う歌手が台頭してきたこともあり、西城さんはワイルドな激しいアクションで、絶唱して歌うスタイルでスターダムに乗りました。1974年の紅白歌合戦で西城さんはトップバッターで「傷だらけのローラ」を歌い、初出場とは思えない堂々とした華麗なステージを披露しました。

西城さんを「アイドル新御三家」という枠で括るよりも、その後のJ-POPや日本のロックの後輩アーティストたちに、音楽上の多大な影響を与えている功績を挙げるべきだと思います。いわゆるビジュアル系バンドと呼ばれたアーティストたちの歌唱法は、どこかに西城さんの歌唱法の影響を受けているように感じます。また、エンターテイメントとしては、スタジアムでのソロ・コンサートツアーを初めて開催したのも西城さんです。今ではスタジアムでのコンサートを行うアーティストは数多くいます。それと、洋楽のカバー曲を積極的に取り入れようとしていたのも西城さんで、「YOUNG MAN」や「抱きしめてジルバ」もそういう経緯から発売に至っています。この洋楽カバーを実現するため、スタッフとは結構戦ったようですが、西城さんは独自の音楽についての持論が結構ある方のようです。ポップスとロックを分ける日本の音楽評論には異を唱え、「ポップスもロックも同じで、日本のはまだまだ歌謡ロック」と言い当てています。今の西城さんに、今の音楽シーンを語っていただいたら、結構面白いんじゃないかなと思いました。

ぼくも数年前にDAM★ともで「傷だらけのローラ」を歌って公開しましたが、終盤前の「ローラ…ローラ…ローラ!」と叫ぶところがなかなか西城さんに近づけなくて、どうやって練習したのかなと感心した次第です。


傷だらけのローラ/西城秀樹 (1974年 紅白)